数年前、私は、生命倫理に関する講義をインターネット放送用に撮影したことがあります。聴衆が一人もいない状況で、暑い日でしたが、騒音が入らないようエアコンもつけずに撮影しました。ひどい暑さの為に、途中でカメラマンもカメラだけ作動させ、こっそり出て行ってしまいました。カメラの前で一人講義をしながら、心の中で葛藤しました。「今回の撮影でやめよう。聴いている人もいないのに、この暑い空間で何をやっているんだ。」
ところが、心の中に声が聞こえてきました。「本当に聴衆はいないのか。」「いません。」「わたしにはあなたが見えるのに、あなたにはわたしが見えないのか。」それは神の御声でした。その後、私が残りの講義の撮影を、情熱と誠意を傾けて臨んだことは、言うまでもありません。
いつも大いなる聴衆である神が、私たちの前におられます。今私たちは、主の前で生きているのです。カルヴィンはこれを「コラム・デオ(Coram Deo)」と表現しました。このような臨在意識を持っていた人はヨセフです。ポティファルの妻が、誰も見ていないから私と寝てくれと誘惑したとき、ヨセフは「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」と反論しました。神の臨在意識、コラム・デオ意識を持って生きるなら、神の臨在と栄光が去ることはありません。
「三重革命の霊性」/ハン・ギチェ
Thursday, April 29, 2010
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment