「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:2)」
イエスがご自分をぶどうの木にたとえられたヨハネの福音書15章は、愛に満ちあふれたみことばです。「イエスはまことのぶどうの木であり、私たちはその枝です。」というのが、15章全体の要旨です。この本文は、実を結ぶ枝とそうでない枝が直面する、相反する運命について話しています。大学生宣教団体で軍隊の訓練のような信仰生活を送った私は、この箇所を読みながら失望したものです。自分自身をいくら振り返ってみても「実を結ばない枝」のように思えたからです。少なくとも「実を結ぼうともがく枝」くらいにはなるだろうかと思いましたが、本文にはそのようなグレーゾーンの枝はありませんでした。「農夫である神様が、私のような枝をすでに取り除いてしまっていたらどうしよう。いや、もうすでに取り除かれてしまったかもしれない」と思い、辛かったものでした。
このみことばは、ギリシャ語の原語を知っていても、聖書時代の文化を知らなければ、聖書の翻訳が難しいことを教えてくれます。ポイントは、聖書時代のぶどうの栽培方法にあります。今日のぶどうは枝がY型の針金に絡まりながら育ちますが、聖書時代には針金などはなく、ぶどうの枝は地面をはうようにして伸びました。農夫は地面の上に伸びた枝を一つ一つ持ち上げて、石で支えました。枝が地面に着くと、そこから新しい根が張ってしまい、もともとの根から栄養が供給されなくなり、実を結べないからです。このように聖書時代の農夫は、地面についた枝は「持ち上げ」、実を結ぶ枝は「きれいにする」剪定作業をしたのです。
本文では「取り除く」と翻訳されたギリシャ語の原語は「アイロ」ですが、これは「取り除く」と「持ち上げる」という二つの意味があります。聖書時代のぶどうの栽培方法に基づくと、このみことばは「持ち上げる」と翻訳することもできます。
すると、みことばの意味が大きく変わります。実を結べない枝を農夫である神が取り除かれるのではなく、一つ一つ持ち上げられ、結局は神のみこころをなしてくださるからです。さばきの恐さを与えるみことばが、すばらしい励ましのみことばに変わるのです。結局、枝である私たちが実を結ぶ方法は、とても簡単なのです。ただ、まことのぶどうの木であるイエスにしっかりとつながってさえいれば、農夫である神がすべてをうまく取り仕切ってくださるのです。
リュ・モーセ:イスラエル宣教師、『イスラエル・トゥデイ(韓国語版)』編集長
Monday, May 31, 2010
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