Saturday, June 26, 2010

夕食係?

今日は午後から、教会の若者達がみんなで出かけ、スポーツを楽しむというイベントがありました。メンバーはJのお兄ちゃん、お姉ちゃん的存在なので、「Jも連れてってくれる?」とお願いしたところ、「もちろん!」と、一緒に連れて行ってくれました。私もKevinも一緒ではないので、最初は「え〜っっ」と言っていたJも、時間が来たらちゃんと準備して、とっとと出かけていきました。みんなに面倒みてもらって、楽しく遊んできたらしいです。良かった、良かった。ほんとにうちの教会の子達はみんないい子達ばっかりで、みんな仲良しで感謝です♪

そして夕食。教会の若者達は夕方までスポーツを楽しみ、後は場所を移動し、そのままみんなで夕食を食べて、Kevinのショートメッセージと分かち合いというスケジュールでしたが、Jはスポーツが終わったら帰ってきました。

初めの予定では、Jが戻ったら駅で待ち合わせをして、教会のお友達と私とJの3人でラーメンを食べに行こう!と言っていたのですが、それは延期となりました。「これから帰る」と電話してきたJに、「ラーメン食べるのは、今日はやめにしたから、家に帰ってきて。」と言って、私は週報作りや明日の準備で大忙し。。。

「駅についたよ」とまた電話してくれたJ。「ところでさ、ご飯どうする?」と。「さぁ〜、どうしようかねぇ。」と無責任なママに「あのさ、弁当買って行こうかと思っているんだけど。」と言って、私の注文をとり(?)、ちゃんとお弁当を買ってきてくれたのです。いろいろ忙しかったママには、なんというBig Help!ずいぶん大きくなったなぁ。頼もしくなってきたなぁ。優しいなぁ。。。と、とっても嬉しかったのでした。

メンバーの皆さん、お世話さまでした。いつもJをかわいがってくれて、どうもありがとう。Jも、夕食係してくれてありがとね!と、神様とみんなへの感謝でいっぱいの土曜日でした♡

Wednesday, June 23, 2010

あれから1年…

キキがイエス様のところに行って、今日で1年たちました。去年の今日のことをいろいろ思い出しながら、1日過ごしています。家の中のどこにもネコがいない、キキと遊んだり、抱っこしたり、一緒にお昼寝したりができなくなっちゃった、ということは、今だにほんとに寂しく悲しいのですが、イエス様が抱っこしてくださっていると思うと慰められ、この1年を過ごしてこれたんだなぁと思います。

いろんな意味で、いろんなことが激変した1年でした。でも神様の愛と恵みはいつも変わらず、たくさんの祝福をいただいて過ごしてきました。そこから力を得なければ、この変化に対応できなかったことも数多く…。神様に感謝と賛美をささげるのみです。

キキのことをますます愛おしく感じ、キキとの思い出を大切に、そしてこの1年を守り導いてくださった神様に感謝して、また新しい歩みを始めていこう!と思っています。

Monday, May 31, 2010

誕生日♪

今日は私の誕生日。朝から、たくさんの方々にお祝いメールをいただき、またプレゼントもいただいて、皆さんのあたたかい愛の言葉や行ないを通して、神様からたくさんの恵みをいただいています。ありがとうございます!

今年の誕生日は、私には感慨深いものがあります…。というのは、父が失明したのと同じ年齢になったからです。「パパは今頃、目が見えなくなったんだなぁ。」と、当時のことをいろいろ思い出したり、子どもの頃にはわからなかった、父や母の思いが少しわかるようになってきたり、このことを通して与えられた神様の恵みや祝福を数えて感謝の思いがますます深くなったり…。

5月16日〜24日まで、実家に帰ってきました。その時、家においていた楽譜を何冊か持ってきたかったので、母がまとめておいてくれた箱を開けて、楽譜や本などを探しました。その時、1986年11月号の「決断-Decision」というクリスチャンの月刊誌(今はもう発行されていませんが)が出てきました。両親が取材を受けて、「暗やみにいのちの光輝いて」という記事になったのです。

もう一度その記事を読み返し、大きな試練の中で、神様がどのように父と母に働き、慰め、励まし、その愛の中にしっかりと保って守ってくださったのか、また家族の必要をすべて神様の方法で満たし、私と弟に好きな学びをさせ、神様の導かれる道に進む備えをしてくださったこと、父や母の信仰、そして神様のすばらしさを思わされました。

「主は私の羊飼い。私にはとぼしいことがありません。(詩篇23:1)」小さい時から一番大好きなみことば。このみことばをしっかり握って、父や母の信仰、また私の為に祈り育ててくださった多くの信仰の先輩達の信仰と幻を受け継ぎ、子ども達や霊の子ども達に信仰のバトンをしっかり渡していきたいなと祈らされます。実家に戻って、なつかしい方々にたくさん会うことができました。そして一緒に育った幼なじみのSちゃん、今年度から母教会の牧師になったK君にも会い、一緒に育った友達が、大きくなってますます祈りの友としてお互いを愛し、祈り合える幸いも感謝しました。受けた恵みをたくさんの人と分かち合い、神様の恵みがますます豊かにされ、私たちの歩みを通して主の御名に栄光が帰されますように…!

<ぶどうの木>

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。(ヨハネ15:2)」

イエスがご自分をぶどうの木にたとえられたヨハネの福音書15章は、愛に満ちあふれたみことばです。「イエスはまことのぶどうの木であり、私たちはその枝です。」というのが、15章全体の要旨です。この本文は、実を結ぶ枝とそうでない枝が直面する、相反する運命について話しています。大学生宣教団体で軍隊の訓練のような信仰生活を送った私は、この箇所を読みながら失望したものです。自分自身をいくら振り返ってみても「実を結ばない枝」のように思えたからです。少なくとも「実を結ぼうともがく枝」くらいにはなるだろうかと思いましたが、本文にはそのようなグレーゾーンの枝はありませんでした。「農夫である神様が、私のような枝をすでに取り除いてしまっていたらどうしよう。いや、もうすでに取り除かれてしまったかもしれない」と思い、辛かったものでした。

このみことばは、ギリシャ語の原語を知っていても、聖書時代の文化を知らなければ、聖書の翻訳が難しいことを教えてくれます。ポイントは、聖書時代のぶどうの栽培方法にあります。今日のぶどうは枝がY型の針金に絡まりながら育ちますが、聖書時代には針金などはなく、ぶどうの枝は地面をはうようにして伸びました。農夫は地面の上に伸びた枝を一つ一つ持ち上げて、石で支えました。枝が地面に着くと、そこから新しい根が張ってしまい、もともとの根から栄養が供給されなくなり、実を結べないからです。このように聖書時代の農夫は、地面についた枝は「持ち上げ」、実を結ぶ枝は「きれいにする」剪定作業をしたのです。

本文では「取り除く」と翻訳されたギリシャ語の原語は「アイロ」ですが、これは「取り除く」と「持ち上げる」という二つの意味があります。聖書時代のぶどうの栽培方法に基づくと、このみことばは「持ち上げる」と翻訳することもできます。

すると、みことばの意味が大きく変わります。実を結べない枝を農夫である神が取り除かれるのではなく、一つ一つ持ち上げられ、結局は神のみこころをなしてくださるからです。さばきの恐さを与えるみことばが、すばらしい励ましのみことばに変わるのです。結局、枝である私たちが実を結ぶ方法は、とても簡単なのです。ただ、まことのぶどうの木であるイエスにしっかりとつながってさえいれば、農夫である神がすべてをうまく取り仕切ってくださるのです。

リュ・モーセ:イスラエル宣教師、『イスラエル・トゥデイ(韓国語版)』編集長

Thursday, April 29, 2010

<あなたの目にはわたしが見えないのか>

数年前、私は、生命倫理に関する講義をインターネット放送用に撮影したことがあります。聴衆が一人もいない状況で、暑い日でしたが、騒音が入らないようエアコンもつけずに撮影しました。ひどい暑さの為に、途中でカメラマンもカメラだけ作動させ、こっそり出て行ってしまいました。カメラの前で一人講義をしながら、心の中で葛藤しました。「今回の撮影でやめよう。聴いている人もいないのに、この暑い空間で何をやっているんだ。」

ところが、心の中に声が聞こえてきました。「本当に聴衆はいないのか。」「いません。」「わたしにはあなたが見えるのに、あなたにはわたしが見えないのか。」それは神の御声でした。その後、私が残りの講義の撮影を、情熱と誠意を傾けて臨んだことは、言うまでもありません。

いつも大いなる聴衆である神が、私たちの前におられます。今私たちは、主の前で生きているのです。カルヴィンはこれを「コラム・デオ(Coram Deo)」と表現しました。このような臨在意識を持っていた人はヨセフです。ポティファルの妻が、誰も見ていないから私と寝てくれと誘惑したとき、ヨセフは「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」と反論しました。神の臨在意識、コラム・デオ意識を持って生きるなら、神の臨在と栄光が去ることはありません。

「三重革命の霊性」/ハン・ギチェ

<偶像作り>

罪人は偶像を造ります。偶像はコントロールができるからです。偶像は人が造ったものなので、ひとまずわかりやすいという点があります。

偶像は、人の中にある欲望があふれ出たものです。ギリシャ神話の中に、理解できない神がいるでしょうか。ゼウスはわかりやすい神です。また、女性はみなビーナスのようになりたがるのではないでしょうか。ビーナスは肉感的な女性ですから、ビーナスを崇めることは情欲を満たしていることになるのです。また酒の神バッカスも人気があります。バッカスを崇めるために酒を飲んだりもします。巫女のところに行って願掛けをするとよくわかります。巫女が言うことは自分の心と非常に一致します。すべての偶像は、人間の心と一致するのです。それは人間が造ったものだからです。それが、人間が偶像を造る理由です。

私たちには偶像を礼拝しようとする心があります。常に楽をしようとするのは偶像を礼拝する心です。それは偶像礼拝であり、罪の性質です。

私たちが神の御前で全き者として立つ方法は何でしょうか。足りなければ足りないままで生きることです。マルティン・ルターは、みことば通りに生きようと努力しましたが、それは不可能であるということを悟りました。ルターが最後に悟ったことは、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)というみことばでした。ルターは、イエス様と十字架に対する信仰が重要であり、それが自分自身を生かすということを悟り、立ち上がることができました。これがまことの信仰です。

「生命力」/チョン・ビョンウク

図書館

今年はいろいろ忙しくて、心身共に疲れを覚える春を過ごしています。でも神様の恵みと祝福は、疲れの10000倍以上!ですけれどね♪そうして神様から守られ、支えられ、助けられているからこそ、こうして生きていられるんだなぁと実感します。

そんな神様の恵みの一つは図書館。

ちょっと前の話になりますが、Jが春休みの課題図書リストからどの本を読むか選ぶのに、まず図書館に行ってリストにある本を実際に見て、それから選びたいというので、一緒に市立図書館に行ってきました。

図書館の場所はわかっていたし、ここに引っ越してきてから今年で6年になるのに、体力、気力が伴わず、図書館に行ったのはこれが初めてでした。(ちなみに、以前所沢に住んでいた頃は、まだ3−4歳だったJと一緒に、毎週図書館に通っていました。でも病気になって動くのがおっくうになり、教会の仕事や学び、Kevinの手伝いで頭が文字いっぱいで飽和状態だった為、自分の中でバランス取るには、「本」より「音楽」だったんですよね〜。)

ちょっと緊張しながら行ってみたら、図書館の前にある公園の木々に癒され、中に入ってみたら、もともと「本大好き」だった自分を再認識、再発見した感じでした。「うわぁ〜、こんなに本がいっぱい!」って、わくわくドキドキして、次々に本棚の本を目で追っている自分にびっくり。

Jの課題図書リストにある本も全部そろって、一通り中を見て、Jが「じゃあ、これにする」と決めるまでには、私の手の中にも本が2冊。二人で図書カードを作ってもらって、いい気分で家に帰りました。以来、時々図書館行っては次々に本を借りて、久々に自分の為の読書を楽しんでいます。もちろん、「音楽」の方もバイオリンやピアノのレッスンで四苦八苦しながら、それでも楽しくて嬉しくて心満たされていますよ♪

気候の良い時にぜひやってみたいのは、図書館の前の公園で、持参のコーヒーを飲み、i-podで音楽を聴きながら、木々に囲まれて本を読むこと。今、大好きなハナミズキが見事なんですよね〜。でもなかなか時間とエネルギーがそろわない上、この天候不順ではねぇ…。早く実現するといいなぁ。