Thursday, December 31, 2009

大みそか 2009

いよいよ2009年もあとわずか。ブログを始めてから、大みそかに記事を書くのはこれで3回目。それぞれの年の大みそかの日と、それまでの1年の歩みを思い出しつつ、今年も「神様への感謝」と「皆さんへの感謝」いっぱいの思いで大みそかを過ごせて嬉しいなぁと思っています。

今年は、宣教師になって日本に来てちょうど10年の節目の年でした。1999年1月末に日本に来た時、Jはまだ2歳半でした。それがもう、今では私の背をちょっと超えるほどに成長しました。そして2002年から教会開拓の働きが始まって、Jは教会の中で救われた人の初穂、バプテスマ式第1回目に、Uさんご夫妻と一緒に受洗する祝福と恵みをいただきました。教会もいろんなことがあったけど、神様はすべての痛み、苦しみ、涙を益と変え、祝福、楽しみ、喜びに満ちた恵みの雨でおおってくださいました。今年は「牧師招聘」という大プロジェクトを与えられ、いろいろと悩みや試練の谷を通ることもありましたが、27日の年末感謝礼拝で、教会の歴史という本の第1章を終え、牧師と共に成長していくという、第2章のページが開かれつつあるところです。

Kevinとの歩みも、夫婦、親友、戦友、パートナー、サポーター、ヘルパー、時には敵?になったりしながら(笑)、神様によって「夫婦にされていく」プロセスがいよいよ深められてきたように思います。どんな時にも変わることなく私たちを愛し、忍耐強く教え導いてくださる神様に感謝です。

私の今年のハイライトは…
*キキをイエス様のもとに送ったこと

*2年前に買った初心者用バイオリンセットを売り、Kevinの遠縁のおじいさん(Geneさん)からもらった80歳のバイオリン(Geneさんのおじいさんがバイオリンの職人さんで、孫のGeneさんの為に作ってくれたのだそうです。でもGeneさんはバイオリン弾きにはならなかったので、私に譲ってくださいました)を修理して、こちらを使うようになったこと
(これについては、また後でゆっくり書きたいと思っています)

*11月に両親が来て、私の方の家族みんなで過ごす時間が与えられたこと

*たくさんの信仰の友と、すばらしい交わりが与えられたこと

*音楽や子どものミニストリーが広げられ、たくさんの祝福をいただき、神様のご栄光の為に用いられたこと
(Mさん、Tさん、Kさんとの特別賛美、こども達とのキッズ礼拝や特別賛美、そしてHちゃんのピアノレッスンなど…)

感謝、感動の出来事はまだまだたくさんありますが、とても書ききれるものではありませんね…。

そうそう、今年はディボーション用に使っている「リビングライフ」の聖書通読日課を使って、聖書の通読をしました。いろんな所を計画的に読めて、深く教えられ、たくさん恵みをいただきました。来年もこの方法で通読を続けるつもりですが、それ以外にもなるべくたくさん聖書を読み、通読を続けて行きたいです。それから、毎日のディボーション以外に別に時間をとって、イエス様と二人の「コーヒータイム/ティータイム」を、「随時」じゃなく「定期的に」持っていきたいなと思っています。そしてもちろん「暗唱聖句」は継続的な目標です。

あと、今年すごく活躍したのは、2008年に一時帰国した時、ニューヨークのサポート教会からプレゼントしていただいた「i-pod」。家事をする時、病院で待っている時、電車に乗っている時などなど、i-podでたくさんの音楽を聴き、賛美し、心も体も霊も満たされ、イエス様から慰め、励まし、希望、そして力をいただきました。

いろいろな思いや経験をした一年。皆さんもそれぞれにたくさんのことがあったと思います。共に、救い主、大牧者、王、親友、そして花婿であるイエス様にのみ目を留め、心を向けて、祈り合いながら、恵みを分かち合いながら歩んでいきたいです。神様の祝福が豊かに注がれ、主にある希望と喜びに満ちた新年を迎えられますよう、心から祈ります。来年もよろしくお願いします。

2009年の暗唱聖句
<イザヤ54:2>
あなたの天幕の場所を広げ、
あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。

2009年のテーマソング
<聖歌#539>
見ゆるところによらずして
信仰によりて歩むべし
何をも見ず また聞かずとも
神のみ約束に立ち
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

見ゆるところはいかなるも
我 早や得たりと信じつつ
疑ごうことなく 歩みなば
必ずそのごとくならん
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

おのがきよきをもて誓う
父なる神はまことなり
そのみことばを信ずる者に
なしあたわぬことあらじ
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

Wednesday, December 30, 2009

チェス

ボードゲームの好きなJ。学校で将棋やチェスを覚えてきたり、アメリカのおじいちゃんからチェッカーを教えてもらったり、伝統的な?ボードゲームも大好きです。そういえば、弟のRもじいちゃんが家に泊まりに来た時将棋を教えてもらって、よく二人で将棋をしていました。私はオセロは好きだったけど、将棋は覚える気もなく、じいちゃんとRの勝負をながめるばかりでした。が、今になって、Jに相手をさせられるので将棋も覚えざるを得なくなりましたけれど、1回まぐれで勝ったのみ。Jも「ママは将棋やチェスはだめだ」と思ったらしく、私とはもっぱら単純なゲームを楽しみ、将棋やチェスのようなゲームはKevinとするようになりました。

クリスマスのプレゼントに、Jと私からKevinにチェスをあげました。そしてその新しいボードを使い、二人で遊んで(戦って?)います。いい勝負なのか、Jの方が強いのか…、と思えばKevinが勝っていたり、二人でたっぷり楽しんでいるようです。

今日も夕食後、一仕事&冬休みの宿題をしてから二人で勝負していました。それを見ながら、私はバナナケーキを作ったり、勝負中の二人の言い分(?)をあまりわけもわからずに「ふん、ふん、なるほどね〜。」と聞いたり、まったりと過ごしました。

男同士で楽しんでいる様子を見ながら、ママはママでまったりと、好きなことして過ごす時間は最高のひととき♪と思うこの頃です。

Monday, December 28, 2009

楽しい一日♪

クリスマスのプログラムも無事に終わり、昨日は年末感謝礼拝をささげて、ようやくほっと一息ついています。

今日は、幼なじみのMちゃんと、うちのJと私の3人でショッピングモールに行って、久々にのんびりと楽しいひとときを過ごしてきました。いろんな意味で気晴らし&気分転換になったし、MちゃんにもJにも、とても良い時間になったようで、相乗効果で私もさらに良い気分に。神様、楽しい時間をありがとうございました。

それにしても、楽しい時間を過ごした後というのは、リフレッシュしてゆとりができ、神様やまわりに対して感謝の思いが湧き出てくるものだなぁとしみじみ感じました。「楽しい時」を過ごすことは、神様からのプレゼントであり、神様からのプレゼントを受け取った時は、感謝で嬉しくて、回りの人達と分かち合わずにいられない、っていうようになっていくものなんだな〜と思います。そういう意味でも、主にある「休息」「気分転換」「リフレッシュ」って大事ですね。

Kevinはいろいろな仕事(事務処理、宣教団へのレポート、日曜の計画、メッセージの準備、etc...)や歯医者の予約などで、一緒に出かける時間はありませんでした。でも、Mちゃんと一緒に夕飯にピザを食べることにして、「ピザ頼んでおいて〜」と電話で頼んで帰宅したら、お皿洗いや部屋の片付けなどをして、もちろんピザも頼んで待っていてくれました。Kevin、ありがとう!そして、おみやげに買ってきたKevinの大好きなクランベリーソースとピザで、Mちゃんと一緒に楽しい夕食の交わりもできました。いろんなことたくさん話して、いろんな思いを分かち合うことができ、ほんとにほんとに楽しかった一日でした。

来年も、神様の愛をたくさん受けて、受けた恵みを感謝して、どんどんまわりに分かち合っていく一年になると良いなぁ…。その為にはまず、イエス様の一番近くにいて、いつもイエス様と共に歩むのが第一ですね。フォーカス当てるべきところを間違えず、的を得た生き方ができますようイエス様に祈りつつ歩んでいきたいです。皆さんも、主にある希望、平安、喜びに満ちた新年を迎えられますよう、お祈りしています。

Friday, December 25, 2009

クリスマスのまことの奇跡

イエス・キリストがこの地にお生まれになったことを祝うクリスマス。神がイエス・キリストによって受肉し、人となられたという事実こそ、キリスト教の中で最も驚くべき教えです。神が人となられたという宣言は、キリスト教の核心的な信仰告白です。

ところが、宗教改革者マルティン・ルターは、この受肉よりもさらに大きな奇跡があると述べています。一つ目は、「神が人間の体でこの世に来られた」ということ、二つ目は、「イエスが処女マリヤからお生まれになった」こと、三つ目は「理解を超えたこの事実をマリヤが信じ、受け入れた」ことです。彼はこのうち、三つ目の奇跡がもっとも偉大な奇跡だと述べています。処女が子どもを産むこと、神が人となられることもたいへんな奇跡ですが、神の大いなる力を思えばいくらでもおできになることです。これに反し、弱い人間である一人の乙女が、イエス・キリストの母として自分が選ばれたという告知を聞き、これをそのまま信じたということは、それこそ奇跡としか言いようがないと言うのです。

ルターは、イエスが誕生した頃の人々の信仰に感嘆しています。なぜ処女であったマリヤは、聖霊によってみごもり男の子を産むだろうという御使いのことばを聞き、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と告白することができたのでしょう。なぜヨセフは、マリヤがみごもった子どもは聖霊によるものだという御使いの話を信じ、彼女を受け入れることができたのでしょう。なぜ羊飼いたちは、ベツレヘムで救い主が生まれたと聞き、駆けつけることができたのでしょう。ルターは「もし私がイエスが誕生された頃にベツレヘムに死んでいたのならば、馬小屋で生まれた赤ん坊が人間の姿をした神であると、果たして信じたであろうか。」と告白しています。そして、マリヤやヨセフ、羊飼いたちの信仰に感嘆と尊敬を表しています。

クリスマスを迎える私たちに、この奇跡を自分のものとする信仰があるでしょうか。すでに初代教会の教父オリゲネスは、「キリストなる主がマリヤによってこの世にお生まれになっても、私の心に主がお生まれにならないのならば、何の意味があるだろうか。」と問い返しています。イエス・キリストが人となってこの世に来られたのは、私の為であるという信仰告白をする時に、クリスマスは私に奇跡になり、キリストは私の救い主になるのです。

メリー・クリスマス!

パク・ギョンス:長老会神学大学 教会史教授

Tuesday, December 22, 2009

もうすぐクリスマス

12月に入ってからはもちろん、普段にも増して大忙しの毎日ですが、11月にも私の両親が来て約1週間ほど泊まって行ったり、教会の方も牧師招聘の準備で超多忙で、すっかりブログ更新もご無沙汰してました。ちょこちょこと書きたいことはいろいろあったのですが、時間とエネルギーが不足していたのに加え、あまりにも多くのメール連絡、メッセージの訳、などなど、文章に向き合うことが多すぎて脳が飽和状態…。文字に向き合うよりも、音楽に向き合う方がリフレッシュでき、理性と感性のバランスがとれれば何とかいろんなことが乗り越えられる、という状態/状況で、頭が文字だらけになって疲れると、ひたすら音楽を聴き、ピアノやバイオリンを弾いて過ごした2か月でした。

パパ、ママのお泊まりやその時のイベントは、また別の時に書きたいと思っていますが、久しぶりにまとまった時間を両親と過ごせて、とても楽しく嬉しかったです。

12/13には対外的なクリスマス・コンサート。2年前にもしましたが、音楽ホールを借りて、ハンドベルとゴスペル・クワイヤの演奏のプログラム。どちらもとても良かったです♪そして今回のメッセージは、初めてバイリンガルのメッセージ。Kevinが英語、それを私が日本語で訳して…という形で行ないました(もちろん、原稿は事前に訳して、二人で何度か練習をして臨みました。同時通訳なんてとてもできません)。やっとの思いで不承不承だった私の思いに反して(?)なんだかとっても好評で、教会の人達に「あんまりやりたくないんだから、そんなにほめたり励ましたりしないで〜。」と言ってしまったくらい。守り支えて用いてくださった神様、祈ってくださった教会の皆さん、感謝感謝です。。。

12/20はクリスマス礼拝。名づけて「ファミリー・クリスマス」。恒例となった、フレンチホルンとの礼拝前奏と賛美の伴奏。そして今年のイースター礼拝に続き、ソプラノのM姉と一緒に特別賛美。今回はMさんと私の他、T姉、K姉のフルートも入って、女性4人で練習の時からいい雰囲気で楽しく賛美できました。今回も、M姉の独唱はすばらしかったです♡またイースターにも4人で賛美する予定で、楽しみです♪子どもたちも、「みつかいくだる」を歌と楽器で特別賛美。それにしても太っ腹な子どもたち。今回はあまり練習時間がなかったのに、上手に仕上がり、イエス様のお誕生をお祝いできました。

20日は午後から子ども会でした。教会の子どもたちも、今では約15名のレギュラーメンバーに増え、イベントのたびに参加してくれるお友達も来てくれて、お手伝いしてくださった教会の大人達や、子どもたちのご両親も一緒に、和やかに楽しい子ども会となりました。司会してくれたM姉も、名司会お見事でした。ゲームも工作もおやつも、それぞれの担当の方達が責任もって奉仕してくださり、私は指図だけして自分はあまり動かなくても良かったので、朝から続いたBIG Dayを乗り切れたんだと思います。教会が一つとなって神様と人々に仕えることの喜び、楽しさ、麗しさをしみじみと感じました。神様には何よりのささげものになったんじゃないかな〜と、嬉しい一日でした。

明日の23日は、午後から近くの老人ホームに有志11名で行って、キャロリングをしてきます。

今年のクリスマスは、「音楽の賛美は、私がイエス様にささげることができる、私からの最高のプレゼントなんだな〜(上手、下手は別として)」としみじみ思いつつ過ごしています。音楽の楽しみと苦しみをたっぷり味わいつつ(?)、私にしか出せない音でイエス様に賛美の歌をささげていけるといいなぁ。。。だって、イエス様が「わたしはかおりの音楽が大好きなんだよ。」って言い続けてくださるから。イエス様がもっと喜び楽しんでくださることを一番に願い、祈りつつ…です。

皆さんも、良いクリスマスを!

Saturday, November 7, 2009

<今この瞬間の礼拝>

ジャン・ピエール・ド・コサードは「一瞬一瞬を礼拝によって」生きる態度が、聖化への早道であることを知りました。彼は「毎分、毎秒の中に神の国があり、御国の糧を含んでいる。だからどうでもいい瞬間は存在しない。」と何度も強調しています。コサードは「聖」と「世俗」を区分してはいけないと教えています。たとえ些細なことであっても、神はすべてのことを通して働かれます。「聖なることかどうかを問うのではなく、その中にある神の御手を求めなければなりません。」と繰り返し主張しています。それだけでなく、時間そのものが神の働きなのだと言います。時間は「神の働きを記録する歴史」であるからです。

「今立っているところで神を求めなさい」という教えは、いつでも嬉しいものではありません。未来の瞬間は、挑戦的であり、刺激的で、報いは大きいだろうと考えながらも、「今」という時間に捧げるべき礼拝を、ただ無視してしまいたいことがいかに多いことでしょう。しかし、覚えておかなければならないことは、主が恵みを注いでくださる場所は、まさに今立っているところなのだということです。実際に私が存在する唯一の場所は現在だからです。

私も、このような文章を書くより、もっと重要で、もっと忙しく、もっと賛美すべきことがいくらでもあります。しかし原稿を書いている今、私が急いですべきことは、文章を完成させることです。それが「今立っているところで捧げる礼拝」だからです。

「霊感を与えた師たち」/フィリップ・ヤンシー

Monday, November 2, 2009

<種を蒔くことをやめるな>

私たちの教会では、礼拝堂の前のロビーのベンチを「愚か者たちのベンチ」と呼んでいます。毎週そこは、誰かを待っている聖徒たちでいっぱいです。上司、友人、家族など、待っている対象は違っても、皆、だれかの為に祈っているのです。だれかの人生に少しでも霊的な影響を及ぼしたいという渇望でいっぱいの人々。何とか勇気をふりしぼって友人を教会に招き、来るという返事が返ってくると、まるで天に舞い上がるかのようです。「本当に来るって!」

ついに日曜日が来てロビーに行き、友人が来るのを気をもみながら待ちます。何分か経つと、うろうろし始めます。あちらこちら、前や後ろにうろうろしたあげく、神にせがみます。「おぉ、神様!友人が早く来られるようにしてください。早く!神様!!」15分が経ってもだれも現れません。ロビーのベンチ、愚か者たちのベンチ。来ると約束したのに、来る気配のないだれかを待ち続ける愚か者のベンチ。

パウロは伝道を「労苦」だと言わなかったでしょうか。伝道は仕事です。それも骨の折れること、この上ない仕事。真心を注ぎました。神から遠く離れた人に恵みと寛容と愛を与えました。種を蒔きました。電話もかけ、友情を示しました。真夜中に電話で悩みごとも聞いてあげました。しかし、結局残ったものはずたずたに引き裂かれた心だけ。それでもやめません。また種を蒔きます。愚かだからでしょうか。そうです。しかも、特別な愚か者です。いつか灰の山の上に、小さな青い芽が出ると信じる愚か者。

「愛しているなら伝道せよ」/ビル・ハイベルズ

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このコラムを読んで私は、一番の愚か者はイエス様、神様ご自身だなぁと思いました。自分から神様の愛と恵みを拒絶し、自ら滅びの道を選んで歩み続ける罪人を忘れることができず、あきらめることができず、心が裂けても愛し続け、呼びかけ、招き、待ち続けてくださる神様。私自身、救われるまでも、また救われてからもずっと、この神様の深く豊かな愛、憐れみ、恵み、忍耐と希望によって導かれてきました。そのことを知れば知るほど、イエス様に近づけられ、イエス様のそばに立って、自分のことも、他の人達のことも見、祈り続ける力、愛し続ける力が増し加えられていきます。そしてイエス様が愚か者となって、これほどまでに私を、人々を愛し続け、呼びかけ、招き、待ち、祈り続けてくださるならば、私もイエス様と一緒にそうします!イエス様と一緒に愚か者となりますから、私をみそばにおいてください!と祈らずにいられなくなるのです。

「愚か者」というと、とても聞こえが悪いです。否定的で消極的で、何の展開も向上もないように思ってしまいます。でも聖書には、こうはっきりと書いてあります。「神の愚かさは人よりも賢い」

問題は、神様と共に愚か者になろうとせず、自分一人で賢くなろうと、それも自分が思う「賢い」人になろうとすることなのかもしれません。

中学生の時に与えられたみことば。
哀歌2:18-19
「彼らは主に向かって心の底から叫んだ。シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」

そして献身して歩む中でいただいた、イエス様からのラブコールのみことば。
第2テモテ1:8
「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみを共にしてください。」

イエス様の一番そばにいて、イエス様と共に愚か者となり、主が私に与えてくださった使命を果たす力を与えてくださいと祈らされているこの頃です。でもそれは、決して無駄な痛み、無駄な涙、無駄な苦しみではありません。必ずいつか、主の愛のシャワーを豊かに受けた小さな種が美しく咲き、実を結ぶことを、主と共に見越して望みつつ、主と共に労するというイエス様とラブラブ(?)の時間であり、イエス様といつも一緒にいられる、私にとっては最高に幸せな歩みになるのです。時々つぶれつつも、イエス様を見上げる時、主が私の心を変え、喜びと平安と希望で満たしてくださいます。いつも祈り合い、支え合うことのできるKevinやJ、家族はもちろん、主にある兄弟姉妹一人一人の存在もまた、主が恵みとして与えてくださった宝です。

いろいろ書いたので、最後おまけに(?)、私がもう30年くらい祈り続けている、祈りの詩を紹介します。

主よ この痛みを
取り去りたまえとは祈らじ
されど主よ 我は願う
この日 実りなき痛みを
いだかざることを

主よ 我が涙を
ぬぐい去りたまえとは祈らじ
されど主よ 我は願う
過ぎし日の我が涙注がれて
他人(ひと)の心の荒地に
かおり高き花の
咲きいずるを見んことを
(作者不詳)