なぜ霊的感覚が崩れるのでしょうか。神を信じていると言いますが、実態である神には出会えず、神が「概念化」されているからです。礼拝と祈り、賛美を通して神と出会う体験がない為、常に神が概念化されていきます。概念は実態ではありません。たとえば、「犬」という概念があるとします。「あれが犬だ」と思えば、その瞬間、もはや犬を見ることはありません。すなわち、体験と観察を省略してしまうのです。ただ概念で把握してしまいます。しかし、実際に犬だと呼ばれる対象を観察してみてください。大きな犬、小さな犬、毛が多い犬、口が出た犬、耳が大きな犬など、数えきれないほど多くの対象が存在します。しかし、「犬」と概念化した瞬間、それ以上見ることをせず、「犬」というカテゴリーにすべて寄せ集めてしまうのです。
「神を概念によって知る」ということは、どういう意味でしょうか。「神はこういう方だ」と頭の中で整理した内容を、そのまま「神」として受け入れる行為です。一体それがどうやって神になれるのでしょうか。私たちがそのような概念の神と出会うなら、私たちには力もなく、喜びもありません。もちろん、神との出会いもありません。したがって、概念化された神ではなく、聖書に現れた神、その神とみことばを通して「出会わなければ」なりません。聖書を通して、直接神の息づかいを感じてください。祈りと賛美、説教を通して語られる神を感じてください。礼拝の中で神の臨在を感じてください。その出会いがまことのキリスト教なのです。それが、失われた感覚を回復した、生ける聖徒と教会の姿なのです。
「泣いてこそ生きる」/ジョン・ビョンウク
Saturday, October 31, 2009
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