Thursday, December 31, 2009

大みそか 2009

いよいよ2009年もあとわずか。ブログを始めてから、大みそかに記事を書くのはこれで3回目。それぞれの年の大みそかの日と、それまでの1年の歩みを思い出しつつ、今年も「神様への感謝」と「皆さんへの感謝」いっぱいの思いで大みそかを過ごせて嬉しいなぁと思っています。

今年は、宣教師になって日本に来てちょうど10年の節目の年でした。1999年1月末に日本に来た時、Jはまだ2歳半でした。それがもう、今では私の背をちょっと超えるほどに成長しました。そして2002年から教会開拓の働きが始まって、Jは教会の中で救われた人の初穂、バプテスマ式第1回目に、Uさんご夫妻と一緒に受洗する祝福と恵みをいただきました。教会もいろんなことがあったけど、神様はすべての痛み、苦しみ、涙を益と変え、祝福、楽しみ、喜びに満ちた恵みの雨でおおってくださいました。今年は「牧師招聘」という大プロジェクトを与えられ、いろいろと悩みや試練の谷を通ることもありましたが、27日の年末感謝礼拝で、教会の歴史という本の第1章を終え、牧師と共に成長していくという、第2章のページが開かれつつあるところです。

Kevinとの歩みも、夫婦、親友、戦友、パートナー、サポーター、ヘルパー、時には敵?になったりしながら(笑)、神様によって「夫婦にされていく」プロセスがいよいよ深められてきたように思います。どんな時にも変わることなく私たちを愛し、忍耐強く教え導いてくださる神様に感謝です。

私の今年のハイライトは…
*キキをイエス様のもとに送ったこと

*2年前に買った初心者用バイオリンセットを売り、Kevinの遠縁のおじいさん(Geneさん)からもらった80歳のバイオリン(Geneさんのおじいさんがバイオリンの職人さんで、孫のGeneさんの為に作ってくれたのだそうです。でもGeneさんはバイオリン弾きにはならなかったので、私に譲ってくださいました)を修理して、こちらを使うようになったこと
(これについては、また後でゆっくり書きたいと思っています)

*11月に両親が来て、私の方の家族みんなで過ごす時間が与えられたこと

*たくさんの信仰の友と、すばらしい交わりが与えられたこと

*音楽や子どものミニストリーが広げられ、たくさんの祝福をいただき、神様のご栄光の為に用いられたこと
(Mさん、Tさん、Kさんとの特別賛美、こども達とのキッズ礼拝や特別賛美、そしてHちゃんのピアノレッスンなど…)

感謝、感動の出来事はまだまだたくさんありますが、とても書ききれるものではありませんね…。

そうそう、今年はディボーション用に使っている「リビングライフ」の聖書通読日課を使って、聖書の通読をしました。いろんな所を計画的に読めて、深く教えられ、たくさん恵みをいただきました。来年もこの方法で通読を続けるつもりですが、それ以外にもなるべくたくさん聖書を読み、通読を続けて行きたいです。それから、毎日のディボーション以外に別に時間をとって、イエス様と二人の「コーヒータイム/ティータイム」を、「随時」じゃなく「定期的に」持っていきたいなと思っています。そしてもちろん「暗唱聖句」は継続的な目標です。

あと、今年すごく活躍したのは、2008年に一時帰国した時、ニューヨークのサポート教会からプレゼントしていただいた「i-pod」。家事をする時、病院で待っている時、電車に乗っている時などなど、i-podでたくさんの音楽を聴き、賛美し、心も体も霊も満たされ、イエス様から慰め、励まし、希望、そして力をいただきました。

いろいろな思いや経験をした一年。皆さんもそれぞれにたくさんのことがあったと思います。共に、救い主、大牧者、王、親友、そして花婿であるイエス様にのみ目を留め、心を向けて、祈り合いながら、恵みを分かち合いながら歩んでいきたいです。神様の祝福が豊かに注がれ、主にある希望と喜びに満ちた新年を迎えられますよう、心から祈ります。来年もよろしくお願いします。

2009年の暗唱聖句
<イザヤ54:2>
あなたの天幕の場所を広げ、
あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、
綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。

2009年のテーマソング
<聖歌#539>
見ゆるところによらずして
信仰によりて歩むべし
何をも見ず また聞かずとも
神のみ約束に立ち
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

見ゆるところはいかなるも
我 早や得たりと信じつつ
疑ごうことなく 歩みなば
必ずそのごとくならん
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

おのがきよきをもて誓う
父なる神はまことなり
そのみことばを信ずる者に
なしあたわぬことあらじ
歩めよ 信仰により 歩め 歩め 疑わで
歩めよ 信仰により 見ゆるところにはよらで

Wednesday, December 30, 2009

チェス

ボードゲームの好きなJ。学校で将棋やチェスを覚えてきたり、アメリカのおじいちゃんからチェッカーを教えてもらったり、伝統的な?ボードゲームも大好きです。そういえば、弟のRもじいちゃんが家に泊まりに来た時将棋を教えてもらって、よく二人で将棋をしていました。私はオセロは好きだったけど、将棋は覚える気もなく、じいちゃんとRの勝負をながめるばかりでした。が、今になって、Jに相手をさせられるので将棋も覚えざるを得なくなりましたけれど、1回まぐれで勝ったのみ。Jも「ママは将棋やチェスはだめだ」と思ったらしく、私とはもっぱら単純なゲームを楽しみ、将棋やチェスのようなゲームはKevinとするようになりました。

クリスマスのプレゼントに、Jと私からKevinにチェスをあげました。そしてその新しいボードを使い、二人で遊んで(戦って?)います。いい勝負なのか、Jの方が強いのか…、と思えばKevinが勝っていたり、二人でたっぷり楽しんでいるようです。

今日も夕食後、一仕事&冬休みの宿題をしてから二人で勝負していました。それを見ながら、私はバナナケーキを作ったり、勝負中の二人の言い分(?)をあまりわけもわからずに「ふん、ふん、なるほどね〜。」と聞いたり、まったりと過ごしました。

男同士で楽しんでいる様子を見ながら、ママはママでまったりと、好きなことして過ごす時間は最高のひととき♪と思うこの頃です。

Monday, December 28, 2009

楽しい一日♪

クリスマスのプログラムも無事に終わり、昨日は年末感謝礼拝をささげて、ようやくほっと一息ついています。

今日は、幼なじみのMちゃんと、うちのJと私の3人でショッピングモールに行って、久々にのんびりと楽しいひとときを過ごしてきました。いろんな意味で気晴らし&気分転換になったし、MちゃんにもJにも、とても良い時間になったようで、相乗効果で私もさらに良い気分に。神様、楽しい時間をありがとうございました。

それにしても、楽しい時間を過ごした後というのは、リフレッシュしてゆとりができ、神様やまわりに対して感謝の思いが湧き出てくるものだなぁとしみじみ感じました。「楽しい時」を過ごすことは、神様からのプレゼントであり、神様からのプレゼントを受け取った時は、感謝で嬉しくて、回りの人達と分かち合わずにいられない、っていうようになっていくものなんだな〜と思います。そういう意味でも、主にある「休息」「気分転換」「リフレッシュ」って大事ですね。

Kevinはいろいろな仕事(事務処理、宣教団へのレポート、日曜の計画、メッセージの準備、etc...)や歯医者の予約などで、一緒に出かける時間はありませんでした。でも、Mちゃんと一緒に夕飯にピザを食べることにして、「ピザ頼んでおいて〜」と電話で頼んで帰宅したら、お皿洗いや部屋の片付けなどをして、もちろんピザも頼んで待っていてくれました。Kevin、ありがとう!そして、おみやげに買ってきたKevinの大好きなクランベリーソースとピザで、Mちゃんと一緒に楽しい夕食の交わりもできました。いろんなことたくさん話して、いろんな思いを分かち合うことができ、ほんとにほんとに楽しかった一日でした。

来年も、神様の愛をたくさん受けて、受けた恵みを感謝して、どんどんまわりに分かち合っていく一年になると良いなぁ…。その為にはまず、イエス様の一番近くにいて、いつもイエス様と共に歩むのが第一ですね。フォーカス当てるべきところを間違えず、的を得た生き方ができますようイエス様に祈りつつ歩んでいきたいです。皆さんも、主にある希望、平安、喜びに満ちた新年を迎えられますよう、お祈りしています。

Friday, December 25, 2009

クリスマスのまことの奇跡

イエス・キリストがこの地にお生まれになったことを祝うクリスマス。神がイエス・キリストによって受肉し、人となられたという事実こそ、キリスト教の中で最も驚くべき教えです。神が人となられたという宣言は、キリスト教の核心的な信仰告白です。

ところが、宗教改革者マルティン・ルターは、この受肉よりもさらに大きな奇跡があると述べています。一つ目は、「神が人間の体でこの世に来られた」ということ、二つ目は、「イエスが処女マリヤからお生まれになった」こと、三つ目は「理解を超えたこの事実をマリヤが信じ、受け入れた」ことです。彼はこのうち、三つ目の奇跡がもっとも偉大な奇跡だと述べています。処女が子どもを産むこと、神が人となられることもたいへんな奇跡ですが、神の大いなる力を思えばいくらでもおできになることです。これに反し、弱い人間である一人の乙女が、イエス・キリストの母として自分が選ばれたという告知を聞き、これをそのまま信じたということは、それこそ奇跡としか言いようがないと言うのです。

ルターは、イエスが誕生した頃の人々の信仰に感嘆しています。なぜ処女であったマリヤは、聖霊によってみごもり男の子を産むだろうという御使いのことばを聞き、「あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と告白することができたのでしょう。なぜヨセフは、マリヤがみごもった子どもは聖霊によるものだという御使いの話を信じ、彼女を受け入れることができたのでしょう。なぜ羊飼いたちは、ベツレヘムで救い主が生まれたと聞き、駆けつけることができたのでしょう。ルターは「もし私がイエスが誕生された頃にベツレヘムに死んでいたのならば、馬小屋で生まれた赤ん坊が人間の姿をした神であると、果たして信じたであろうか。」と告白しています。そして、マリヤやヨセフ、羊飼いたちの信仰に感嘆と尊敬を表しています。

クリスマスを迎える私たちに、この奇跡を自分のものとする信仰があるでしょうか。すでに初代教会の教父オリゲネスは、「キリストなる主がマリヤによってこの世にお生まれになっても、私の心に主がお生まれにならないのならば、何の意味があるだろうか。」と問い返しています。イエス・キリストが人となってこの世に来られたのは、私の為であるという信仰告白をする時に、クリスマスは私に奇跡になり、キリストは私の救い主になるのです。

メリー・クリスマス!

パク・ギョンス:長老会神学大学 教会史教授

Tuesday, December 22, 2009

もうすぐクリスマス

12月に入ってからはもちろん、普段にも増して大忙しの毎日ですが、11月にも私の両親が来て約1週間ほど泊まって行ったり、教会の方も牧師招聘の準備で超多忙で、すっかりブログ更新もご無沙汰してました。ちょこちょこと書きたいことはいろいろあったのですが、時間とエネルギーが不足していたのに加え、あまりにも多くのメール連絡、メッセージの訳、などなど、文章に向き合うことが多すぎて脳が飽和状態…。文字に向き合うよりも、音楽に向き合う方がリフレッシュでき、理性と感性のバランスがとれれば何とかいろんなことが乗り越えられる、という状態/状況で、頭が文字だらけになって疲れると、ひたすら音楽を聴き、ピアノやバイオリンを弾いて過ごした2か月でした。

パパ、ママのお泊まりやその時のイベントは、また別の時に書きたいと思っていますが、久しぶりにまとまった時間を両親と過ごせて、とても楽しく嬉しかったです。

12/13には対外的なクリスマス・コンサート。2年前にもしましたが、音楽ホールを借りて、ハンドベルとゴスペル・クワイヤの演奏のプログラム。どちらもとても良かったです♪そして今回のメッセージは、初めてバイリンガルのメッセージ。Kevinが英語、それを私が日本語で訳して…という形で行ないました(もちろん、原稿は事前に訳して、二人で何度か練習をして臨みました。同時通訳なんてとてもできません)。やっとの思いで不承不承だった私の思いに反して(?)なんだかとっても好評で、教会の人達に「あんまりやりたくないんだから、そんなにほめたり励ましたりしないで〜。」と言ってしまったくらい。守り支えて用いてくださった神様、祈ってくださった教会の皆さん、感謝感謝です。。。

12/20はクリスマス礼拝。名づけて「ファミリー・クリスマス」。恒例となった、フレンチホルンとの礼拝前奏と賛美の伴奏。そして今年のイースター礼拝に続き、ソプラノのM姉と一緒に特別賛美。今回はMさんと私の他、T姉、K姉のフルートも入って、女性4人で練習の時からいい雰囲気で楽しく賛美できました。今回も、M姉の独唱はすばらしかったです♡またイースターにも4人で賛美する予定で、楽しみです♪子どもたちも、「みつかいくだる」を歌と楽器で特別賛美。それにしても太っ腹な子どもたち。今回はあまり練習時間がなかったのに、上手に仕上がり、イエス様のお誕生をお祝いできました。

20日は午後から子ども会でした。教会の子どもたちも、今では約15名のレギュラーメンバーに増え、イベントのたびに参加してくれるお友達も来てくれて、お手伝いしてくださった教会の大人達や、子どもたちのご両親も一緒に、和やかに楽しい子ども会となりました。司会してくれたM姉も、名司会お見事でした。ゲームも工作もおやつも、それぞれの担当の方達が責任もって奉仕してくださり、私は指図だけして自分はあまり動かなくても良かったので、朝から続いたBIG Dayを乗り切れたんだと思います。教会が一つとなって神様と人々に仕えることの喜び、楽しさ、麗しさをしみじみと感じました。神様には何よりのささげものになったんじゃないかな〜と、嬉しい一日でした。

明日の23日は、午後から近くの老人ホームに有志11名で行って、キャロリングをしてきます。

今年のクリスマスは、「音楽の賛美は、私がイエス様にささげることができる、私からの最高のプレゼントなんだな〜(上手、下手は別として)」としみじみ思いつつ過ごしています。音楽の楽しみと苦しみをたっぷり味わいつつ(?)、私にしか出せない音でイエス様に賛美の歌をささげていけるといいなぁ。。。だって、イエス様が「わたしはかおりの音楽が大好きなんだよ。」って言い続けてくださるから。イエス様がもっと喜び楽しんでくださることを一番に願い、祈りつつ…です。

皆さんも、良いクリスマスを!

Saturday, November 7, 2009

<今この瞬間の礼拝>

ジャン・ピエール・ド・コサードは「一瞬一瞬を礼拝によって」生きる態度が、聖化への早道であることを知りました。彼は「毎分、毎秒の中に神の国があり、御国の糧を含んでいる。だからどうでもいい瞬間は存在しない。」と何度も強調しています。コサードは「聖」と「世俗」を区分してはいけないと教えています。たとえ些細なことであっても、神はすべてのことを通して働かれます。「聖なることかどうかを問うのではなく、その中にある神の御手を求めなければなりません。」と繰り返し主張しています。それだけでなく、時間そのものが神の働きなのだと言います。時間は「神の働きを記録する歴史」であるからです。

「今立っているところで神を求めなさい」という教えは、いつでも嬉しいものではありません。未来の瞬間は、挑戦的であり、刺激的で、報いは大きいだろうと考えながらも、「今」という時間に捧げるべき礼拝を、ただ無視してしまいたいことがいかに多いことでしょう。しかし、覚えておかなければならないことは、主が恵みを注いでくださる場所は、まさに今立っているところなのだということです。実際に私が存在する唯一の場所は現在だからです。

私も、このような文章を書くより、もっと重要で、もっと忙しく、もっと賛美すべきことがいくらでもあります。しかし原稿を書いている今、私が急いですべきことは、文章を完成させることです。それが「今立っているところで捧げる礼拝」だからです。

「霊感を与えた師たち」/フィリップ・ヤンシー

Monday, November 2, 2009

<種を蒔くことをやめるな>

私たちの教会では、礼拝堂の前のロビーのベンチを「愚か者たちのベンチ」と呼んでいます。毎週そこは、誰かを待っている聖徒たちでいっぱいです。上司、友人、家族など、待っている対象は違っても、皆、だれかの為に祈っているのです。だれかの人生に少しでも霊的な影響を及ぼしたいという渇望でいっぱいの人々。何とか勇気をふりしぼって友人を教会に招き、来るという返事が返ってくると、まるで天に舞い上がるかのようです。「本当に来るって!」

ついに日曜日が来てロビーに行き、友人が来るのを気をもみながら待ちます。何分か経つと、うろうろし始めます。あちらこちら、前や後ろにうろうろしたあげく、神にせがみます。「おぉ、神様!友人が早く来られるようにしてください。早く!神様!!」15分が経ってもだれも現れません。ロビーのベンチ、愚か者たちのベンチ。来ると約束したのに、来る気配のないだれかを待ち続ける愚か者のベンチ。

パウロは伝道を「労苦」だと言わなかったでしょうか。伝道は仕事です。それも骨の折れること、この上ない仕事。真心を注ぎました。神から遠く離れた人に恵みと寛容と愛を与えました。種を蒔きました。電話もかけ、友情を示しました。真夜中に電話で悩みごとも聞いてあげました。しかし、結局残ったものはずたずたに引き裂かれた心だけ。それでもやめません。また種を蒔きます。愚かだからでしょうか。そうです。しかも、特別な愚か者です。いつか灰の山の上に、小さな青い芽が出ると信じる愚か者。

「愛しているなら伝道せよ」/ビル・ハイベルズ

*******
このコラムを読んで私は、一番の愚か者はイエス様、神様ご自身だなぁと思いました。自分から神様の愛と恵みを拒絶し、自ら滅びの道を選んで歩み続ける罪人を忘れることができず、あきらめることができず、心が裂けても愛し続け、呼びかけ、招き、待ち続けてくださる神様。私自身、救われるまでも、また救われてからもずっと、この神様の深く豊かな愛、憐れみ、恵み、忍耐と希望によって導かれてきました。そのことを知れば知るほど、イエス様に近づけられ、イエス様のそばに立って、自分のことも、他の人達のことも見、祈り続ける力、愛し続ける力が増し加えられていきます。そしてイエス様が愚か者となって、これほどまでに私を、人々を愛し続け、呼びかけ、招き、待ち、祈り続けてくださるならば、私もイエス様と一緒にそうします!イエス様と一緒に愚か者となりますから、私をみそばにおいてください!と祈らずにいられなくなるのです。

「愚か者」というと、とても聞こえが悪いです。否定的で消極的で、何の展開も向上もないように思ってしまいます。でも聖書には、こうはっきりと書いてあります。「神の愚かさは人よりも賢い」

問題は、神様と共に愚か者になろうとせず、自分一人で賢くなろうと、それも自分が思う「賢い」人になろうとすることなのかもしれません。

中学生の時に与えられたみことば。
哀歌2:18-19
「彼らは主に向かって心の底から叫んだ。シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」

そして献身して歩む中でいただいた、イエス様からのラブコールのみことば。
第2テモテ1:8
「むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみを共にしてください。」

イエス様の一番そばにいて、イエス様と共に愚か者となり、主が私に与えてくださった使命を果たす力を与えてくださいと祈らされているこの頃です。でもそれは、決して無駄な痛み、無駄な涙、無駄な苦しみではありません。必ずいつか、主の愛のシャワーを豊かに受けた小さな種が美しく咲き、実を結ぶことを、主と共に見越して望みつつ、主と共に労するというイエス様とラブラブ(?)の時間であり、イエス様といつも一緒にいられる、私にとっては最高に幸せな歩みになるのです。時々つぶれつつも、イエス様を見上げる時、主が私の心を変え、喜びと平安と希望で満たしてくださいます。いつも祈り合い、支え合うことのできるKevinやJ、家族はもちろん、主にある兄弟姉妹一人一人の存在もまた、主が恵みとして与えてくださった宝です。

いろいろ書いたので、最後おまけに(?)、私がもう30年くらい祈り続けている、祈りの詩を紹介します。

主よ この痛みを
取り去りたまえとは祈らじ
されど主よ 我は願う
この日 実りなき痛みを
いだかざることを

主よ 我が涙を
ぬぐい去りたまえとは祈らじ
されど主よ 我は願う
過ぎし日の我が涙注がれて
他人(ひと)の心の荒地に
かおり高き花の
咲きいずるを見んことを
(作者不詳)

Saturday, October 31, 2009

キキは神様のネコ♪

今年6月に、15歳でこの世のいのちを終え、祈りつつイエス様のもとに送った我が家の愛猫キキ。生きている時はもちろん、死ぬ時にも、キキの存在を通して、神様は私たち家族にたくさんの愛、恵み、祝福を注ぎ、神様ご自身とそのみわざのすばらしさを示してくださいました。秋になり、ようやくキキのいない生活に慣れてきました。…とは言っても、やっぱりキキが恋しい〜って思います。

そんな感じで過ごしていますが、2日ほど前、私たちを支援してくださっているアメリカの教会の方からメールが来ました。なんと、「今度の礼拝でキキのことをみんなに分かち合いたいので、キキの写真を送ってほしい」とのこと。

「へ?」と思ってそのメールを読み進んでみたら、その教会ではずっと、ペットを通して得た神様からの恵み、ペットを通しておしえられたこと、ペットを通して現された主の栄光の証を分かち合う、ということをしているのだそうです。そして、その教会のメンバーの方々が、次々にいろんな証をしてきたそうですが、なんと、11/1の礼拝の時の証の為、キキに白羽の矢があたった(?!)のでした。

6月末に、ケビンがメールでアメリカのサポーターの方々に祈祷課題を送った時、キキが死んだこと、またキキの存在を通して、どんなに私たちが神様から豊かな恵みを受けてきたのか、ということも書きました。その祈祷課題を読んで、そこの教会の方々がみんなで心を合わせて祈ってくださっていたのだと思います(この教会は、本当に私たち家族を覚え、いつもとてもよく祈り、ケアしてくださっています)。そして今回、キキのことを分かち合って、神様の恵みを教会の方々と共に賛美してくださるとのこと、ほんとう〜に嬉しく感謝だし、大感激です。

しみじみと、神様がいのちを与えてくださったものはみんな、神様のものなんだなぁと思いました。そして聖書に書いてあるとおり、信仰の人が、死んでなおその信仰によって語っているのはもちろんですが、神様は動物のいのちもすべて御手の中で大切にし、死んでからも、神様のご用の為に、うちのキキを用いてくださるなんて、なんてすごいことなんだろうと、神様への感謝、その愛の深さ、豊かさに感動しています。キキは、私たちの大事なネコであるだけでなく、神様がとても愛し、大事にかわいがってくださっているネコなんだね!と、嬉しい思いでいっぱいになりました。

<信仰の概念化を壊せ>

なぜ霊的感覚が崩れるのでしょうか。神を信じていると言いますが、実態である神には出会えず、神が「概念化」されているからです。礼拝と祈り、賛美を通して神と出会う体験がない為、常に神が概念化されていきます。概念は実態ではありません。たとえば、「犬」という概念があるとします。「あれが犬だ」と思えば、その瞬間、もはや犬を見ることはありません。すなわち、体験と観察を省略してしまうのです。ただ概念で把握してしまいます。しかし、実際に犬だと呼ばれる対象を観察してみてください。大きな犬、小さな犬、毛が多い犬、口が出た犬、耳が大きな犬など、数えきれないほど多くの対象が存在します。しかし、「犬」と概念化した瞬間、それ以上見ることをせず、「犬」というカテゴリーにすべて寄せ集めてしまうのです。

「神を概念によって知る」ということは、どういう意味でしょうか。「神はこういう方だ」と頭の中で整理した内容を、そのまま「神」として受け入れる行為です。一体それがどうやって神になれるのでしょうか。私たちがそのような概念の神と出会うなら、私たちには力もなく、喜びもありません。もちろん、神との出会いもありません。したがって、概念化された神ではなく、聖書に現れた神、その神とみことばを通して「出会わなければ」なりません。聖書を通して、直接神の息づかいを感じてください。祈りと賛美、説教を通して語られる神を感じてください。礼拝の中で神の臨在を感じてください。その出会いがまことのキリスト教なのです。それが、失われた感覚を回復した、生ける聖徒と教会の姿なのです。

「泣いてこそ生きる」/ジョン・ビョンウク

<今の時代のための贈り物、安息日>

私たちの人生において、神の足跡を、日常の全時間においても、神の御手の跡を発見できたら、私たちの人生は無限に豊かになるでしょう。これらすべてのことがわかるには時間が必要です。私たちは神を見つめる時間を持つ為に、何度か立ち止まることもあり、また立ち止まらなければなりません。また、私たちには短い瞬間以上の時間が必要です。

一日中完全に立ち止まることのできる安息日は、神の導きに目を向けられるように、私たちを訓練させます。安息日は、私たちに神秘的な方法で、経験を通じた恵みを悟らせてくれます。今の時代に必要なのは、何よりも恵みなのではないかと思います。私たちの人生が私たちから始まったものではなく、すべての愛が贈り物として私たちに与えられ、神の恵みが私たちを包み、満たしているという事実の中で、安息を味わわなければなりません。神の愛と恵みは、私たちにその資格があるからではなく、神のご性質のゆえに私たちに与えられます。

安息日は、私たちに神の御手の中で休むことによって、その愛と恵みを経験するよう求めます。安息日は、人生を破壊する世の中の要素から抜け出させてくれます。安息日は、魅力的なリズムと拍子を提供し、私たちが週に一日ずつ、マスメディアや競争、ストレスから抜け出せるよう助けてくれます。私たちの文化は、立ち止まらず、休まず、速いスピードで生きるように急かします。神は私たちにほほえみ、いのちを与える、もう少しゆっくりしたリズムへと招かれます。安息日は、私たちの時代の為の、神様からの贈り物なのです。

「喜んで安息する日」/リン・バーブ

Tuesday, October 27, 2009

ブレイブボード

知る人ぞ知る?今ひそかに話題の「ブレイブボード」。なんとうちのJも夢中になっています。この写真は、うまくバランスとって乗れるようになり、なんとUターンまでできるようになった時の記念写真。Uターンがよくわからないのは残念ですが…。(ちなみにこれは、家の前の私道ではありません。家の前にこんなに広い遊歩道があったらいいのになぁ)

ちょっと前まで、教会のMちゃんのお下がりにもらったローラーブレードで遊んでいましたが、足のサイズが合わなくなり、先日遊びに来たJのいとこ(私の甥)のKにあげました。そして「今度は足のサイズに関係なく遊べるものを」ということで、スケートボードに行くか?!という感じのところに、テレビのコマーシャルで「ブレイブボード」を見て、「Jはこれが欲しい!」と、一生懸命お小遣いをためていました。

ちょっと満額には足りませんでしたが、優しい(甘い?)Kevinお父さんが足りない分を出してくれて、そのうえ市場価格よりも安く買うことができて大喜び。さっそく家の前の私道で、ママにつかまってブレイブボードに乗るところから、練習開始。普通のスケボーは板に4つの車輪がついていますが、ブレイブボードは前後2個しか車輪がついていません。しかも足を乗せるところがクネクネと動くので、かなりなバランス感覚が必要です。母子で練習している姿を見かけたお向かいのHさんのおじちゃんに、「J君、車には気をつけるんだよ。こっちの道は車が来ないから、こっちで(家の前の私道)で練習するといいよ。がんばれ!」と励まされ、あっと言う間にちゃんとバランスとって乗れるようになりました。運動音痴のママとは大違い。

そして、Uターンもできるようになり、家の前をスイスイと乗って遊んでいます。今日も学校から戻ってから、ちょこっと乗って遊んでいました。「ママも見て。」と言うので、玄関先に腰をおろしてながめていました。ふと目をあげると、おむかいのHさんの隣りのYさんのおじいちゃんが、2階の窓からJの姿をしばらくながめていました。Yさんはきっと、Jを孫のような感じで見ていてくださったんでしょうね。ありがたいことです。

テレビで見るような、すごいスピードでジャンプするようなことはしませんが、スィ〜とブレイブボードに乗っている姿がなかなか良い感じ。それにしても大きくなったなぁと思うこの頃です。

Wednesday, October 21, 2009

<尊い時間の浪費>

この世の観点で見ると、神を礼拝することは時間の浪費です。これは明らかに尊い時間の浪費ですが、時間の浪費であることには違いありません。しかし、礼拝を実用的な観点で理解してはなりません。

私たちが礼拝するただ一つの理由は、神が礼拝を受けるにふさわしい方であるからです。礼拝は、まことに尊い時間の浪費です。礼拝は私たちを、宇宙の王である神の尊い輝きの中に引き込むからです。「輝きに浸かる」という言葉に込められたイメージが好きです。まるで暑い夏の日に、山にあるサファイヤ色の湖に飛び込むかのようです。これと同じように、礼拝も、神の崇高なご性質と好意に私たちを浸からせようとします。

しかし私たちは、礼拝を個人的な好みや時間、便利さや慰めの問題に変えようとする時代と文化の中に生きています。ですから、礼拝において可能な限り神と深く出会い、神を体験しなければなりません。そうすれば、社会的な怠慢と空想から目覚め、しっかりと神の輝きを仰ぎ見、拝し、敬い、奉仕と犠牲によって応えることができます。神を礼拝する時、私たちは力や成就や成功ではなく、隣人を愛することに時間を浪費するようになります。

礼拝は、クリスチャンとして歩む情熱を与え、さらに情熱的な礼拝へと導く尊い時間の浪費です。礼拝は、時代遅れで、非効率的で、非生産的で、時には私たち自身も満足できないかもしれません。それにもかかわらず、礼拝はこの世を変えることのできるただ一つの希望でもあるのです。

「尊い時間の『浪費』ー礼拝」/マルバ・ダン

・・・・・・・
*一節の黙想:第2歴代誌1:6
ソロモンは礼拝に成功した王でした。彼はイスラエルの指導者たちと民を導き、神の前で1000頭のささげものをささげました。全焼のいけにえは傷のないものでなくてはならず、神が受け取られるように、きよくささげなければなりませんでした。1000頭のいけにえをささげる為に、礼拝者達はどれほど多くの労苦と努力を注いだことでしょうか。ソロモンは、心と思いとまことを尽くして神を愛しました。

キム・ヨンオク/韓国教会の牧師

<自己愛の虚像>

ジム・キャリー主演の映画『マスク』を見ると、緑色のマスクをつけた主人公が着たコートの中から、物を一つ一つ取り出すシーンがあります。それらはすべて、小さく役に立たないものばかりです。私たちも、そのような役に立たないものを守ろうと、それぞれマスクをつけて生きているのかもしれません。偉そうなふり、知ったかぶり、見栄をはりながら生きることに忙しくしています。しかし正直なところ、私たちの中には、あまり大したものはありません。ただ、今ある実力をそのまま見せながら歩めば良いのです。

主人であるイエスが、私のために死なれたことを知っている人は、二度と自分の為に生きたりしません。私の為に代わりに死んでくださった方の為に歩みます。それが、恩人に対する道理であり、感謝する人生です。イエスを信じると言いながらも、主人の為に歩まず、自分自身の為に奉仕し、自己実現の為にイエスの御名を勝手に使うことは、恩知らずです。しっかりと信じているふりをしますが、実は自分自身の為にイエスを信じているのです。イエスを信じていると言いながら、いつも傷ついたと言っている人は、まだ自我が生きている人です。主人の為に生きる人は、傷を受ける暇がありません。しもべは自分の為に生きるのではなく、主人の為に生きるのだからです。では今、あなたは誰の為に生きていますか。

「復活」/キム・ウングク

・・・・・・・
*一節の黙想:ガラテヤ6:14
私たちはただイエス・キリストと十字架を誇らなければなりません。イエスを宣べ伝えればすばらしいことが起こります。私たちが自分の話をすれば、単なる人の言葉となって、何の価値も持たなくなります。しかし、私たちが神の真理を誇るならば、それを聞いた人の心に真理が残ります。私たちの霊的な力の源である十字架に焦点を合わせ、イエス・キリストを誇りましょう。

オズワルド・チェンバース/福音主義巡回伝道者

<互いに励まし合う>

私の息子が小学3年生の時、休みの宿題で木彫りのレリーフを作ったことがありました。息子はニスをしっかりと塗った板にイタリック体で、「おかあさん、愛しているよ!」と刻みました。もちろん、それはこの世で末永く記憶されるほどの名言ではありませんでしたが、そのメッセージが妻に与えた感動は、この世のどんな名言よりも強く持続的なものでした。

妻は、今でもそのレリーフを大切に保管しています。私は、妻が疲れた時や人々の非難や中傷によって心が傷ついた時、レリーフをのぞき込むのを何度も見ました。レリーフの文章が、今でも妻を癒す力を発揮しているのです。

さらにそのレリーフは、妻を癒す役割だけでなく、苦しむ人々を探し、彼らを訪ね、傷を癒すという使命を妻に与える役割もしています。苦しむ人々は決して遠くにいるのではありません。彼らは苦しんでいます。あなたの助けを求めています。苦しみを隠し、仮面をつけて、一日一日滅びへと向かっています。ですから、彼らを祝福しなければなりません。

私たちの目に見えない所で血を流している彼らを探し、訪ね、励ますとき、キリストが私たちを通して、彼らの傷に触れてくださることに気づかなければなりません。他の人々のたましいに関心を持つならば、私たちのたましいも豊かにされるでしょう。

「人を建て上げる最も大きな力、励まし」/カルビン・ミラー

<「私」から「私たち」へ>

アメリカのサンフランシスコ近郊にレッドウッドという森林公園があります。砂漠地帯にもかかわらず、公園にはうっそうとした赤松の木々が、天を突き刺すように高くそびえ、森を作っています。厳しい暑さと日照りのため、何も生存できないようなこの砂漠に、どのようにしてレッドウッド公園のような森ができたのでしょうか。

それは、いろいろな木々が一緒に育っているからだそうです。多くの木々が一緒に育つことによって、地面にはいつも影ができ、湿気の蒸発が抑えられて、木が枯れずに森が維持できるそうです。逆に、初めはうっそうとしていた密林の木々も、一株ずつどんどん切り取ると、次第に土地が干からび、残った木々も全部枯れて死んでしまいます。

自分を愛する人は共同体を愛します。なぜならば、共同体の中にいなければ自分自身が枯れて死んでしまうからです。共同体を愛するということ、それは簡単で当然のことのようですが、ややもするとこれほど難しく大変なことはありません。共同体を愛さなければならないことは知識として知ってはいますが、実践するには必然的に自己犠牲が伴うからです。

「信仰の質を高めるリーダーシップ」/キム・ビョンサム

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*一節の黙想:ガラテヤ4:12
私たちが信仰の単純さを捨て、さまざまな意識や慣習に心を奪われて、心の頼みとするなら、どれほど大きな損失になるでしょうか。ですから、外的なことに心を奪われて奴隷になるのではなく、パウロと同じように心の中にキリストを迎えましょう。キリストが私たちの内面から新しいいのちの力と情熱となってくださいます。私たちが聖霊の勧めに従うたびに、自我は小さくなり、キリストは大きくなるのです。

F.B.マイアー/イギリスの神学者

Saturday, October 10, 2009

<神の親密な愛>

キリスト教私立高校に通っていた一人の少年が、ある日偶然に、このような話を聞きました。
「あなたが神様の為にするすべてのことは、神との親密な関係からなされるものでなければなりません。」この言葉が少年の脳裏から離れませんでした。

深刻に思い悩んだ少年は、近くの川べりに行き、あれこれ思いめぐらしながら、川の水に石を投げました。「ポチャン、ポチャン」また石を投げようとしたところ、心の中でこのような声が聞こえました。「わたしも一緒にしてもいいかい?」少年は、もしかして神様の声じゃないかと思いましたが、そのままやり過ごしました。すると、その声は繰り返し聞こえてきました。少年は結局、石を投げるのをやめて、天を見上げながら話しました。「神様、私と一緒に石を投げて遊ぼうと言われるんですか?どうして、こんなくだらないことをしたいと言われるんですか?神様は、この世のもっと大きな問題に神経を使わないといけないんじゃないですか?」すると、再び声が聞こえてきました。「私はただ、あなたと一緒にいて、親しくなりたいだけだよ。」

まさにその日、15歳の少年だった私は、イエスが本当に私を深く愛しておられるということを悟りました。イエスは、私が休んでいる時や、一人で川に石を投げている時も、私を愛しておられます。イエスは何の条件も制限もなく、私を愛されます。

「美しい力の道、イエス」/ダン・バウマン

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*一節の黙想:第1ヨハネ4:7
私たちは愛する力がなく、他の人を愛してもすぐに底をついてしまうと考えます。しかし、決してそうではありません。水道管を見てください。それはただの空っぽの管にすぎません。しかし、水資源とつながる時、すさまじい水が供給されます。私たちは神の愛の通路であり、全てのものがそのお方から来ます。私たちが他の人を祝福し、愛することのできる力を主が供給してくださいます。私たちは、何もなくても愛することができます。私たち自身が主の愛の通路だからです。

キム・ソテク/韓国の牧師

Saturday, October 3, 2009

<エマオに帰る>

私と妻は「ファイナルフロンティア」という働きの指導者であり、大切な友だちでもあるアベニール・ボスキーと一緒に、イスラエルでの祈りのツアーに参加していました。アベニールは私たちがそこに滞在している間、一般の観光では行くことができない所へ連れて行ってくれました。そこは人々にあまり知られていない所でした。アベニールは私がルカ24章のみことばが好きなことはまったく知りませんでしたが、彼が案内してくれた場所には、「エマオへ続く道」がありました。2000年前にイエスが2人の弟子と一緒に歩かれた道を私たちが歩くとは、なんとすばらしい祝福でしょう!

しかし、その道を歩く喜びを味わうと同時に、重荷を感じました。その理由は、今日の「エマオへ続く道」は、人々の関心から遠ざかり、雑草が茂る丘になっていたからです。それは今日の私たち内側にあるエマオが再び回復されるべきであるということを教えてくれていました。主が私たちの内にあるエマオに再び戻って来られるようにです。心のエマオの道はイエスが私たちと共に歩まれ、みことばを分かち合い、心を開いてくださる道です。

エマオの道を歩きなたら、イエスと出会った2人の弟子の心がどれほど燃え上がったのか考えてみました。そして私は心を開いて、主の御前で泣きました。愛なる神、恵みにあふれる主は、私たちの心が2人の弟子のように熱くなるのを望まれます。その方は、私たちの心が主の御心と一つとなって飛び跳ねることを望まれます。


「主の臨在にとらえられ」/ジェームス・W・ゴール

Wednesday, September 30, 2009

もう明日から10月…。すっかり秋になりましたね。

結婚する前は実家で母とよく食べていた「柿」。結婚後アメリカに行ってからは、あまりスーパーで見かけなかったし(最近は結構見かけるようになりました。Kevinのお母さんは柿が大好き。)、日本に戻って来てからも、梨ほど積極的に買って食べませんでした。しかもJも、あまり柿が好きではなかったし…。

でもこの2年くらい、なぜか「柿好き」に変身したJ。むいてあげると嬉しそうにほおばっています。

寝る前に、ちょっとした果物やゼリーなどを食べるのが好きなJ。昨日もシャワーの後、「なんかおやつないの〜?」と言うので、「あ、ごめん。今日は特にないんだな…。生協で届いた柿はまだ固いし、食べごろにはもう少し待たないとだめみたい。」と言った私に、もそっと一言。

J:「柿か…。Jの好きな柿の季節になったな。。。」

私:「…。」

無言でJをながめた後、妙にその言い方や、しぐさや、雰囲気や、「柿大好き」への変身ぶりがおもしろくて、心の中で大爆笑していました。

それで昨日は柿をあきらめ、教会のお昼の残りでもらってきた「みかん」を食べて寝ました。

Saturday, September 26, 2009

<塩の霊性>

塩は言葉もなく、音もありません。塩は臭いがなく、華やかでもありません。しかし、塩はなくてはならない必需品であり、いのちと同じです。塩は水のように自分を隠し、すべてのものを生き返らせます。光は自分を現すことによって暗やみを照らしますが、塩は自分を隠すことで暗やみを呑み込んでしまいます。塩の美しさは、出しゃばりすぎない素朴さにあります。塩は足りなくもなく、多すぎもしない適切なバランスにおいて、最高の味を出します。塩の霊性はバランスにあります。左にも右にも反れないことがバランスです。かたよりのないものが正道です。正道を歩むものが塩です。

塩は他のものを変化させ、この世を変化させます。海はすべてのものを抱き、すべてのものを生き返らせます。抱いたものに同化せずに、変化させます。変化させる海水の力は、その中にある塩にあります。また、塩は神聖です。神にささげる穀物のささげものには塩を入れました。塩は約束のみことばを象徴します。いのちを与える最も大切なものの中に塩が含まれています。涙に塩が含まれていて、汗にも塩が含まれていて、血にも塩が含まれています。ですから、塩はいのちです。

塩は自分のために存在しません。塩は他のもののために味を出します。塩は自分を溶かして味を出します。イエスのみことばに従い、腐っていくこの世を腐らないように助ける塩、憂鬱なこの世に静かに味を出す塩のような存在になりましょう。


「絶望を希望に変えるいのちの水の恵み」/カン・ジュンミン

Saturday, September 19, 2009

<真実が大切な理由>

真実が大切な理由は、私たちが人間として生まれて、関係の中で生きていくからです。真実の役割は、関係のすべての面において、信頼を築いていくことです。ところが、私たちがもし自分に嘘をつくなら、決して私たちの強さを改善して育てていけないだけでなく、弱さも補えなくなるのです。すなわち、自己開発をとめてしまうことになります。結果的には、私たち自身を信頼することに必要な人格さえも築いていけなくなるのです。

他人に嘘をつけば、基本的に彼らとの関係形成をとめてしまいます。個人的な理解と共同の善を犠牲にすることになります。結果的には、関係という繊細な糸でつながっている人間社会が弱まるのです。そして、神に嘘をつくなら、自己欺瞞がピークに達します。神に嘘をつくとき、果たして私たちは誰を嘲ることになるのでしょうか。結果的に、この世の中心に私たち自身をおいて、徐々に関係の重要性を無視することになり、「神を愚弄する」傾向に陥ってしまうのです。

私たちはすべて、現実の世界を作っているものごとと衝突し、合わさって生きていくのです。私たちは、真実がそれぞれの役割をこなしていけるように、可能な限りの機会をすべて活用すべきです。私たちはいつでも真実を語る人にならなくてはなりません。そうでなければ、私たちは、「健全な関係」という健康な生活の「食卓」を受け入れるには足りない者となってしまいます。


「ピノキオたちがのさばる世の中」/
ダブリン・ドナルドソン&スティーブ・ウェムバーグ

Saturday, September 12, 2009

<恵みとの結婚>

あなたと私は、律法の下に生まれました。アダムが善悪を知る実を食べた時、律法と結婚し、彼の子孫であるあなたや私も、律法と結婚した状態でこの世を生きるようになりました。では、律法との結婚生活とはどのようなものでしょうか。彼は私たちに多くのものを要求し、私がする全てのことをいつも批判します。また、すべきことと、してはいけないことに対して指摘します。彼は常に命令するので、彼としばらく暮らしていると、これ以上彼の言う通りにしたくなくなります。

しかし、私たちは不幸にも死の直前まで律法との婚姻関係から抜け出ることはできません。律法は決して死ぬことがありません。ですから、私たちには希望がないように見えます。

しかし、神は私たちをイエスと共に十字架に架かるようにされ、それによって、アダムの中で律法と結婚した古い人は死んだのです。私たちは死を通して新しく生まれ、完全に別な人となり、イエスと結婚したのです。

恵みとの結婚は、律法との結婚とは次元が異なります。恵みは私たちを見て喜び、私たちに愛を注ぎます。私たちが何かをしなければならない時にも、恵みは変わらず共にいてくれます。しかし、この真理を知らなければ、私たちは再び律法に近づき、すべきことを教えてくれと言って、彼との関係を懐かしむようになるのです。私たちは恵みと結婚しました。このことを悟ることが何よりも重要です。クリスチャンの生き方は、規則ではなく、イエスとの関係によって成される恵みなのです。

「恵みの霊性」/スティーブ・マクベイ

Thursday, September 10, 2009

<聖さがこめられた礼拝>

ケンタッキーで高校に通っていた頃、私は交響楽団でオーボエを吹いていました。指揮者が演奏曲を発表すると、私たちは各自、楽譜を家に持ち帰って練習しました。次の合奏の出来は、家でどれだけ練習したかにかかっていました。

礼拝も同じです。公園のステージで「クリスチャンであるないに関わらず、100名の人々を集め礼拝しよう。」と言うなら、それは話にならない馬鹿げたことではないでしょうか。神は、私たちが礼拝に集うとき、会衆一人一人のうちにある聖霊の臨在を探されます。

偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニは、耳が非常に良く、4列目の5番目のバイオリン奏者がわずかに音を外したのも聞き分けたと言います。神も、このように私たちを細かく知っておられます。私たちは主をだましたり、ごまかしたりすることはできません。

私たちは、1週間のうち6日をでたらめに生きて、聖日だけ敬虔にふるまうようなことは、やめなければなりません。どんなに教会がリバイバルしても、教会員がそれぞれ、個人の生活において指揮者の楽譜に従わなければ意味がありません。オーケストラが出す音は、各楽器の音を合わせたもの以上にはなりません。私たちの礼拝も、それぞれが自分の楽譜に正確に従って、神に栄光を帰す合奏をしなければなりません。

「礼拝に隠された秘密」/R. T. キャンダル

・・・・・・・

<一節の黙想>第1歴代誌 15:15

にない棒など重要でないと片付けてしまうこともできますが、私たちの人生の中で、私たちを倒すのは、そのような小さなものです。私たちは、にない棒を得る為に準備したり、にない棒を肩に担ごうとする苦労をしようとしません。車を利用する方がはるかに簡単だからです。しかしダビデは、神が重要であると思われることを重要視しました。神が重要視されることを重要視してください。

チャールズ・スウィンドル/アメリカの神学校総長

<根気よく祈りなさい>

怠け者のクリスチャンは祈りません。では、怠け者のクリスチャンというのはいるのでしょうか。祈らないクリスチャンというのはいるのでしょうか?クリスチャンの冠と神の御国が小さくなることがありえるでしょうか。臆病な軍人というのはいるのでしょうか。聖徒に見える偽善者というのはいるのでしょうか。慈悲深い悪があるのでしょうか。このような不可能が可能になった時、祈らないクリスチャンも存在しえるのです。

祈るふりをすることは難しくありません。静かに品良く祈ることも難しくありません。しかし、地獄に莫大なダメージを与えるまで、ぶ厚い鉄の扉が開かれるまで、山のような障害物が取り除かれるまで、霧や雲が晴れて太陽の光が照らすまで、心を注いで祈ることは実に難しいことです。しかし、これは確かに神の働きであり、人間ができる最高の労働です。祈る手や頭、心の労は決して無駄になることはありえません。

何の声も聞こえないのに、根気よく祈って待つことは、決してやさしいことではありません。しかし、神が答えてくださるまで待たなければなりません。祈りが答えられた時の喜びは、子を産む痛みに耐えた母の喜びであり、鎖をはずされて新しい人生と自由を得た奴隷の喜びなのです。

「祈りは強い」/E. M. バウンズ

Monday, September 7, 2009

楽器店へ

ひさ〜しぶりに、ちょこっと電車に乗って楽器店に行ってきました。この秋から教会のHちゃんにピアノを教えることになり、いいピアノ教材を探して、調べて、いろいろ勉強してきましたが、今日はいよいよ教材を買いに、楽器店に行ってきたわけです。

出かける前に、「神様、どうぞ私とHちゃんが一番使いやすい教材を選ぶことができますように、助け導いてください。」と祈って出かけました。

うちの近くにあった小さな楽器店が、去年アメリカから戻ってきたら居酒屋に変身してしまっていて、それ以来すごく不便でした。今日行った楽器店は、J駅の南口の目の前にあり、総合楽器店としていろいろなものが売っているのでとっても便利。その上電車の往復も楽だし、わざわざ銀座とか遠くにまで出かけて行く必要もなく、この楽器店の存在をおしえてもらった時は、「神様、ありがとう!」と感謝感激でした。

さて、いよいよ楽譜売り場に行って、リストにあげていた教材を見つけたり、自分のリストにはなかったものでも、実際に内容を見て検討したり…、小1時間ほど考え、検討してきました。その時思い出したのは、私の2人のピアノの先生達から言われたこと。「自分で教えやすい教材を、自分で探して使いこなすこと」でした。

リストにあげた教材はいろいろありましたが、実際に教材を見てみると、どれも一長一短で(もちろんですが)「さて、これを使って教えるって、実際どうなんだろう…。」とかなり考えさせられ、実際のレッスンを思い描いてシミュレーションしたり、頭がフル稼働していました。

そうしていろいろ考えたり祈ったりしている中で、だんだんに、自分がまず教えたいこと、何から始め、何を教えようとしているのか…ということが自分の中ではっきりしてきて、それに合った教材を探すようになっていきました。普段いろいろ考えてばかりの私ですが、エッセイ調に考えるのは好きでも、分析/解析は苦手です。だから、このプロセスは、神様が私の中で働き、教え、導いてくださっているんだということがよくわかり、とても嬉しくなりました。神様と一緒ということが、本当に感謝でした。

自分の考えていることや教えたいことはわかってきたものの、じゃあ、どの教材にする?ということが次のステップ。アメリカでも教会のお友達の娘さん(当時1年生)にピアノを教えたことがあり、その時に使っていた教材がとても使いやすくて気に入っていたのですが、それは日本では売っていないと思ってました。ところが!ふと手に取った楽譜が、アメリカで使っていたものを訳した教材でした。なんと2008年に翻訳出版されていたのです。思いがけない出会い?にびっくり&感激で、もちろん、その教材を使うことに即決定。もう1つ併用する楽譜、五線紙、レッスンノートを買って家に戻りました。

レッスンを始める前から、こんなに神様がよく導いてくださっている、Hちゃんのピアノレッスン。神様がどんなふうに祝福してくださるのか、とても楽しみです。そして、みこころだったら、ピアノのレッスンを通してHちゃんとの交わりが深められ、Hちゃんの信仰の成長にも用いられていきますように…と祈らされています。私も、ピアノのレッスン=先生達との信仰の交わりの部分が多かったし、その中でピアノと共にたくさんのことを教えられ、育てていただきました。これからどんなふうになっていくかわかりませんが、私が受けた恵みを分かち合う時間にもなればいいな〜と思っています。電車で出かけて疲れましたが、神様と一緒に楽しく楽器店に行き、期待以上の収穫を得られて感謝でした。

Wednesday, September 2, 2009

<成功の秘訣>

「六日薬局に行きましょう」の著者キム・ソンオ氏は、馬山(マサン)郊外で、4.5坪の小さい薬局を運営していましたが、今では韓国の財界が注目する、インターネット教育業界のCEO(最高経営責任者)です。彼が語る成功の秘訣は、すべてにおいて聖書に原則を置くこと、そして顧客を感動させる「感動経営」です。

どの分野であっても、成功する為には人の心をつかまなければなりません。しかし、誰かの心をつかみ、感動させるということは決して簡単ではありません。まず自分自身の心が神の感動によって満たされてこそ、他の人の心をつかむことができるのです。

キム・ソンオ氏は、薬局を訪れる顧客の名前を一人一人覚え、また周辺住民たちに仕える「感動経営」によって、開業12年で200倍を売り上げた企業へと成長させました。彼はその秘訣を聖書から探し出したと言います。資本もなく、天才的な能力もありませんでしたが、聖書の原則を守り、成功したのです。

彼は貧しい牧師の息子として、無一文で薬局を始めましたが、厳しい信仰教育を受けていたので、人をだましたり、見栄をはったりしない生き方をしていました。両親の信仰教育と聖書が事業の資産になったのです。彼は聖書どおりに生き、事業をし、人間関係を築くならば、必ず成功すると語っています。

このように、私たちの悪い環境も、神の感動によって包まれる時、すべての人の記憶に残る信仰の場所へと変えられ、そこは光り輝く場所として人々に覚えられることになります。

「家庭よ生き返れ」/キム・ヤンジェ

Monday, August 31, 2009

夏休み その3

夏休み:その3は、「模様替え、片付けと掃除」

我が家の家具は、アメリカで買ってはるばる日本まで持ってきた家具ばかり。日本に来る前に、新しく買って持ってきたものもありましたが、それ以前から使っていたものもあり、しかも、材質が本物の木じゃないので、かなりボロボロになってきていました。近年、その傷み方やゆがみがひどくなっていたので、「日本に来てから10年以上たったし、そろそろ家具も買い替えを考えないとね…。」と話していました。でも、お金もかかるし、家具を替えるなら部屋の使い方も変えようかとも思い、そう考えるとものすごいことになってしまうので、話をしつつも、さっぱり現実味を帯びていませんでした。

でもこの6月にキキが天国に行き、いつもキキが寝ていたピアノ(クラビノーバ)の椅子の下とか、ソファーとか、見慣れた部屋の中にキキがいないという光景があまりに寂しくて、私が泣いてばかりいたので、Kevinが、部屋の模様替えを決行!(もちろん、ちゃんと二人で話して相談して決めたのですが、最終的なGOサインはKevinが決めました、ということです。)

そして、IKEAという輸入物の家具屋さんで、DIYの家具を買いました。それを組み立て、今まで使っていたものを処分し、Kevinの書斎を移動し、リビングルームに新しい家具を置き、クラビノーバをリビングルームから1階に移して、私のレッスン部屋+ゲストルームにして…と、すごい模様替えをしました。一度にできることじゃないので、夏中かかってちょこちょこと進めていきました。

ピアノを移す時とか、今まで使ってきた家具を処分するとか、私は大泣きしながらでしたが、驚いたことに、移動や処分の時は心が痛んで大泣きしたのに、新しいものがおさまると、なんだかすっきりしました。そして、キキのことも、「寂しい〜」と泣く涙から、懐かしい大切な思い出、宝…というように私の中であたたかく変化し、悲しい涙を流すことがなくなりました。「変化」のもつ意味を、今までとは違う感じで経験できたような気がします。

それに伴い、あちこち片付け、整理し、処分し、今までできなかった所の掃除をし…と、家族中でよく働きました。Jも自分の部屋を整理し、処分したり、片付けたり、日頃ママが手抜きしているお掃除を自分でしっかりやったりして、Jの部屋もずいぶんすっきりと綺麗になりました。この状態を保つのが課題だな!というのは、Jと私の課題ですが…f(^_^;)。

私も、目についた時にちょこちょことですが、ガス台や換気扇、水道栓やキッチンカウンターなどの掃除をしました。結構忙しい夏だったのに、「気づいた時にちょこちょこ掃除」の継続効果はばっちり出たような…?(…と言っても、決して家中ピカピカにできたわけではなく、かなり私の「へぇ〜、私もよくやったじゃない。」という自己満足が大きいですが。)

それにしても、Kevinが整理整頓の名人ということはわかってましたが、まぁ〜、よく働くこと、よく気がつくこと…と改めて思いました。Jもよく手伝って、父子でDIYの家具組み立てをしている様子は、とてもほほえましい、嬉しい光景でした。

まだ100%完了したわけではありませんが、この秋から教会の子にピアノを教えることになり、また私の両親も泊まりに来る予定なので、その為に使える部屋も準備できたし、秋からの生活や働きの為、心新たに、いろんなものをもう一度主にささげ、祈りつつ励んでいきたいと思っています。

<お前のために何をしてあげようか>

神はあなたの祈りに関心を持っておられます。なぜなら、神はあなた自身に強い関心を持っておられるからです。あなたにとって重要なことは何でも、神にとって最も優先される関心事になります。神にとって、今あなたの人生で起こっていることよりも重要なことは、地球上のどこにもありません。あなたは神の関心を引く為に、神をわずらわせる必要がありません。

あなたにとって本当に重要なことが何であるかを知る為に、何時間もひざまずいて祈る必要も、断食する必要もないのです。神はあなたの父です。ですから、あなたが言いたいことがあるなら、神は聞きたいと思っておられます。事実、神はあなたが呼ぶことだけを待っておられます。

もし私の子どもが私に電話をかけてきて、「お父さん、どうかお願いします。大きなお願いがあるのです。私の切なる願いを聞いてください。」と言うならば、私はこう言うでしょう。「そんなに遠回しに言うことも、必死になる必要もないんだよ。私の人生でお前より重要なものがあると思うのかい。さぁ、お前の為に何をしてあげようか。」

「わたしの臨在の中に入れ。」と神は語られます。「わたしに話してくれ。お前のすべての心配事を打ち明けてくれ。わたしはお前に一番関心があるんだよ。お前の父だからね。わたしにはお前を助ける力がある。天と地とすべての権威がわたしのものだから。そして、わたしはお前の声がとても聞きたいから、いつも耳を澄ませているんだよ。」

「忙しすぎるから祈ります」/ビル・ハイベルズ

Friday, August 28, 2009

夏休み その2

夏休み:その2、はプール編。

「夏休みには、3回か4回くらいプールに行きたいなぁ。」と、夏休みが始まった頃に、Jが言っていました。サマースクールがあった2週間は、教会では子どもの英語クラス「English Bee」もあったし、忙しくて行けませんでしたが、Kevinが都合を合わせ、時間を作って、2回くらいJを市民プールに連れて行きました。

いよいよ夏休みも終盤になり、家族で夏休みを取ろうかと計画した時も、真っ先に出たのは「プール」。そこで、夏休みのお楽しみに、いつもKevinとJが行っている市民プールではなく、遊園地のプールに家族で行こう!と言うことになりました。普段は、私は一緒に行かないのですが、夏休みのお楽しみだし、どうせ入場券を払わなくちゃいけないんだから、ちょこっとでも水に入るかなと、私も水着を持って出かけたので、Jは大喜び♪

初めて行った遊園地のプール。まぁ〜、さすが遊園地!市民プールとは違うね〜という感じでした。流れるプール、小さい子ども用のプール、ジャンプ用のプール、波のプール、スライダーなどなど、種類もいっぱい。中にはレストランもあって、プールサイドでラーメンを食べている人もたくさんいました。うちは食べなかったけど、ラーメン大好きな私には、かなりな誘惑…?とってもおいしそうに見えましたf(^_^;)

いつも行く市民プールは室内プールですが、このプールはもちろん屋外。ひ弱な私、屋外だと太陽の照りつけですっかり疲れてしまうところでしたが、その日は曇り気味で、外にいてもあまり日があたらなくて、プールサイドで本を読んだり、KevinとJが流れるプールで泳ぐのを見たり、Jがスライダーで滑ってくるのを眺めたり、Jと一緒に波のプールに入ってみたり…と、私も楽しく過ごしました。

特筆すべきは、Jがジャンプ台からジャンプしたこと!サイズの違うジャンプ台が3つあり、小、中の台でジャンプしていたJに、Kevinが「あの大きい台(たぶん2Mくらい?)からジャンプしたら、今週のお小遣いは2倍!」と激励。「まさか、あんな高い所からジャンプしないでしょ。」と思っていたのに、Jの返事はなんとびっくり!「やってみる」と。

監視員のお兄さんが、順番でジャンプさせてくれるのですが、Jがおっかなびっくり一番高いジャンプ台に上がって、自分の順番を待っていたところ、なんと、一番小さいジャンプ台からジャンプした幼稚園くらいの男の子が、一瞬おぼれて、お兄さん達に助けられるというハプニングが!(その男の子は、何事もなく無事でした。良かった、良かった。それにしても、一瞬おぼれた途端に、そばにいた監視員のお兄さんの笛の合図で、他に2人のお兄さん達がさっとプールに飛び込み、見事なチームワークでその子を助けてあげたのには感心しきりでした。)その光景にびっくりして、Jがそろそろとジャンプ台から降りてきたので、「こりゃあ、もうやらないって言うのかな。」と思っていたら、お兄さんに「いいよ。」と声をかけられたJ、また果敢にジャンプ台に登っていきました。

「ピー!」という合図の笛の音と共に、ザッバーン!と見事にジャンプ成功!!!

プールの方は、ジャンプ用なので水深5Mもありますが、ジャンプした後はスイスイと泳いで上がってきました。

あとで「どうだった?怖くてやめたくならなかったの?」と訊いてみたら、「ちょっとドキドキしたけど、思いきって飛び込んでみて、『お〜、楽しい〜!』って思った。」と満足げに話してくれました。

ずいぶん大きくなって、男の子らしく、頼もしくなってきたんだなぁと、しみじみ思いました。楽しい家族プールの時間でした☆

<聖書にもっと近く>

私が聖書をしっかりと研究し始めた時、他の聖書研究者たちが、研究初期に経験したことと同じ道を辿りました。その時の私は、聖書のある部分が理解できず、またある部分を信じることができないでいました。そして聖書の中のある教えは、聖書の他の部分に出てくる教えと完全に矛盾していると感じました。そして、たくさんの人々がしたように、私は、自分が賢明な教えだと思える部分だけを受け取っていました。

しかし、聖書研究をすればするほど、神に近づけば近づくほど、聖書の中の理解できない部分が消え始めました。初めは一つずつ消え始め、次に二つずつ、その次には数十個ずつ消えていきました。月日が経つと、理解できない部分が驚くほど少なくなりました。

それと同時に、神に近づくほど、聖書に近づいていく自分を発見することができました。神に近づくということは、さらに聖書に近づくということを意味するのです。

ここに、誰も否定することのできない、数学的な真理があります。二つの線が、ある特定の点に向かって行くと、その点に到達した時、お互いにぶつかります。この数学的な真理に深い意味が込められています。

私は、神に近づくほど、聖書に近づいていきました。神と私が出会う時、聖書と私が出会うのです。聖書は神の観点で記録された本です。正直な人なら、この結論を、決して否定することはできません。

「みことばの霊を受ける方法」/R.A.トーレイ   

Wednesday, August 26, 2009

夏休み その1

夏休み…と言っても、もう終盤。あちこちで、新学期が始まっている学校も多いので、ちょっと時期外れな感じもしますが、Jの学校は9/7から始まるので、うちはもうちょっと夏休み…。というわけで、夏休みにしていることをいくつかご紹介。

夏休み その1

「夏休み」と言ったら、やっぱり宿題ですよね〜。Jの学校では、英語オンリーのカリキュラムに加え、日本語と日本の歴史や社会をちゃんと学べるようなカリキュラムで、それぞれ個別に勉強を進めています。英語の方の宿題は、夏休みになってから2週間、サマースクールがあって、その時にがんばって進めたので、休み中の宿題としては、そんなに多くありません。いつも学校でやっているように、自分で計画表を作り、計画通りに達成できたかどうかをチェックしながら、マイペースで進めています。

国語の宿題では、毎週月曜から金曜の5日間、天声人語を読むこと、そして週末には、その週のコラムの中で心に残ったものをピックアップして、感想文を書く、というものがあります。

天声人語を読むと言っても、音読の練習、漢字練習、意味を調べる…という濃い内容。結局、私がつきっきりで一緒に勉強しないと、J1人ではできないので、おかげさまで私も一緒に、毎日天声人語を読んで、いろいろ勉強しています。楽しいです。

大人の私は楽しく読めても、Jにとってはかなりのチャレンジ。時にママに怒られ、何度も読み方、書き方、意味などをチェックされて嫌になる時もあるようですが、それでも、「J〜、天声人語!」と私に声をかけられると、はいはいとやって来て毎日続けています。そして、マイペースだし、ゆっくりとした速度ではあっても、最初の頃に比べると、確実にいろいろな力がついてきているように感じます。

親子で勉強という方法は、お互い(特にママが?)忍耐をためされる時もありますが、でもそれぞれに神様に教えられ、反省したり、悔い改めたりする中で、神様から守られて、本当に楽しく勉強でき、いろんな話ができる時間にもなります。私もJも、一緒に勉強する中で第1に教えられたことは「面倒くさがらない」こと!いつになってもチャレンジですが…f(^_^;) こんな時間が与えられていることを心から感謝し、ケンカしつつも、一緒に楽しく勉強していきたいです!イエス様のご用をする、基礎作りがちゃんとできるよう祈りつつ…。

Friday, August 21, 2009

<私たちの手ですること>

多くの場合、私たちは自分がしたことや作り出したものに、心を奪われてしまいます。その理由は、私たちが成就した業績によって評価を受け、何かを生産し、形を造り、変化を起こし、この世に影響を及ぼそうとする、本能的な欲求があるからです。それ自体が悪いというわけではありません。神はこの世を治めるように私たちを召されました。しかし、私たちのすべての努力が完全に無駄になってしまうこともあります。私たちの熱心さが、偶像崇拝になることもありえるのです。

ですから私たちは、仕事に対する責任感からではなく、仕事が持つ支配力から自由にならなければなりません。エルロールは、「自我からの解放が持っている最終的なものは、『自分の手ですること』からの解放」であると指摘しています。

自分がすることや、自分の成した業績が、自分の存在の核心には成り得ません。神は、ご自身の仕事を共に成し、この世を変える者としての「同労者」として私を召されましたが、神は何よりも、私の今の姿をそのまま愛しておられます。実際、神は大変弱く足りない私を、そのまま愛しておられます。

自分の存在を決定する核心は、このように「神から受け入れられること」にあります。私は、偉大な恵みと慈しみの神に、驚くほど愛された存在であり、私がするすべての行ないを通して、神を完全に喜ばせる生活をすることができます。

「ジャック・エルロール黙想集」/チャールズ・リングマー   

Saturday, August 15, 2009

<一度に一歩ずつ>

人生はいつも謎だらけで、自分の予想通りには行きません。自分の未来を、手のひらを見るように眺められるなら、神を信じるという冒険を選択するよりも、怠惰に陥ってしまうでしょう。学生が教科書を全部理解できるなら、先生から学ぼうとはしないでしょう。それと同じことです。神がすべてのことを機械的に導かれるなら、神との関係は終わりです。私たちは、神と協力して人生を造っていく自由人であり、瞬間ごとに能動的に関わるべき被造物です。

しかし反対に、神が何も導かれず、自分自身が、すべてのことを選択するとしたらどうでしょう。とても不安で怖いはずです。心配のあまり、時間と体力を消耗してしまうでしょう。価値のあることに精力を費やせず、不確実な未来を知る為に思い煩うのです。つまり、神はご自身のみこころを見せられもし、隠されもするのです。

神は、一度にすべてを見せられはしません。そのお方は、私たちが歩いていけるだけ、見ることができるだけを見せてくださいます。山の頂上は、一度に見上げることはできません。一歩ずつ踏みしめていけば、最後に頂上が見えるのです。神は、私たちがその方を全面的に信頼し、冒険を試みる分だけ、私たちを導かれます。

J.I.パッカーは「神を知る知識」で、このように述べました。
「私たちが現在行動する為に必要な分以上に、未来に対して知らされたり、
 一度に一歩以上を導かれることは、神の方法ではない。」

「神、私のたましいの庭師」/ファン・ビョンチョル

Wednesday, August 12, 2009

<神の栄光に魅せられた者>

私には、特に大切にしているサングラスが一つあります。サングラスのレンズがどのように加工されているかは、よくわかりませんが、これをかけると、すべてが違って見えます。緑色はより強い緑色に、黄色はより明るい黄色に見えます。すべての色がより鮮明に見えるので、はずしたくないほどです。

私たちが神の栄光に魅せられる時、それはちょうど、このようなサングラスをかけているのと似ています。すべてのものが違って見えるのです。人生の目標はより鮮明になり、生活は新しい力に満ち、神の栄光に魅せられた人だけが味わうことのできる心の感動を感じます。私たちを霊的に完全にするだけでなく、霊的な挑戦である神の目標を、喜びをもって受け入れることができるのです。

私たちの人生への神の関心事は、私たちがただ道徳的で責任ある存在になることではありません。むしろ他の人の神への好奇心を刺激し、霊的で魅力ある存在になることです。キリストに似る人生とは、人々の心を惹きつけるが当惑させ、受け入れるが議論を引き起こし、怒りを刺激するが慰めを与え、何よりも周囲の人々を徹底的に愛します。このようにしてキリストに捕えられた人生は、他の人たちの神に対する新しい思いを刺激します。

ですから重要なのは、どのように従えば神が私たちの人生をより楽で成功する人生に変えてくださるかではありません。聖徒が悩むべき問題は、どのように神の御心に従えば、神の大いなる力が私たちの生活の現場でより鮮明に現れるかということなのです。

「内面の革命」/ドワイト・エドワーズ

Saturday, August 8, 2009

<予告のない主の訪れ>

働き人にとって一番重要なことは、人生のあらゆる状況の中で、イエス・キリストと対面する準備をすることです。これは決してたやすいことではありません。罪、苦難、環境を相手にした戦いではなく、神に仕えることに没頭していながら、実際にイエスと対面する準備ができていない自分自身との戦いだからです。私たちにとって重要なことは、信念や教理の前で完全な人になることでも、神に有用な存在になることでもありません。ただ、イエス・キリストと対面することです。

イエスは、私たちが予想しているような時には来られません。神は私たちが期待しない所で、予想することができない状況の中で現れます。働き人が神の前に正しくある為には、このように、「思いがけない時に訪ねて来られる神」を迎える準備ができていなければなりません。問題は、私たちの働きや礼拝ではなく、イエスをいつでも迎えることができる真実な信仰です。それでこそ、神が願われる幼い子どものような信仰で生きることができます。イエス・キリストを迎える準備をする為には、教会に通うことを高尚な生活態度とみなすような習慣的な態度を捨て、霊的に真実にならなければなりません。

宗教を流行として見る世の中の風潮を拒否し、神に視線を向け、神が願われることに集中し、神の立場から物事を考える時、人々はあなたを非現実的な夢想家とみなすことでしょう。しかし、慌ただしい日常生活の中で、突然イエスが現れたとしたなら、準備ができているのはそのような人達だけです。誰も信じてはいけません。この世で一番立派な聖者だとしても、イエス・キリストを見つめることを妨げるなら、無視しなければならないのです。

オズワルド・チェンバース

Friday, August 7, 2009

やっぱり伴奏者?

久々にバイオリンのこと♪先日のレッスンでは、今まで練習してきた曲が何となく形になってきたので、伴奏と合わせて弾いてみましょうということになり、先生にピアノ伴奏をしていただきました。

やっぱり、伴奏と合わせて弾くには、私のバイオリンはまだまだだな〜と痛感。でも確かに、伴奏がついたことによって、1人で弾いていた時にはなかなかわからなかったことが見え、感じ、いい勉強になりました。

ついでに、いつもは私がピアノで伴奏する立場なので、「伴奏してもらう」という立場になって演奏してみると、へぇ〜、ピアノってこう聴こえるんだ〜などと、ピアノ伴奏者としても、滅多にない勉強になったような気がしました。ほんとに、実際自分が経験してみないとわからないことや、気づかないこと、感じられないことってたくさんあります。

四苦八苦しながら、なんとか最後まで曲を弾き終え、ほっと一息。「いや〜、考えてみると、(TCCの時の)声楽のテスト以外に、こんなふうに伴奏してもらうって初めてのような…。いつもは私がピアノの伴奏者っていう立場なので、立場がかわると勉強になりますね〜。」と言ったところ、「じゃあ、立場かえてやってみましょうか?」と先生。つまり、私がピアノ伴奏して、先生がバイオリンを弾く、という形でやってみましょうよ、と…。

実は「先生に弾いてもらえたらなぁ…。」と思っていたので、「やった、ラッキー!」だった反面、ピアノの伴奏譜、さらっと見てはいるけど、先生の伴奏ができるほど、突然弾けるのか?!という不安もあり…。でも、先生がやる気十分で、私のバイオリンを受け取って、弾く体制に入っていたので、まぁ、ピアノなら何とかなるかな、と、私もピアノの前に座って、さらっと譜読みしていよいよ合わせました。

バイオリン大好きだけど、やっぱりピアノは私の長年の友であり、パートナーであり、存在の一部になっているんだなぁと、しみじみ感じた瞬間でした。そして、今ピアノを弾けるくらいにバイオリンを弾けるようになり、バイオリンが私の存在の一部になるのを楽しみに、これからもがんばって行こう!と思わされました。

それにしても、ピアノは(ある程度なら)楽譜を見れば、自然に指が動き、大体弾き方もわかり、(ある程度)自分で弾きたいように、(ある程度)弾きたい音で弾けるのに、バイオリンは難しい〜。でもピアノだって、もっともっと勉強していかなくちゃ。「ある程度」で止まらずに…と、バイオリンと共に、ピアノの課題も、山のようなこの頃。「ピアノでも、もっともっといろんな曲を弾いていきたい。バイオリンでも、ピアノを弾くみたいに(ある程度?)自由に弾けるようになりたい。神様、私はこんなにピアノとバイオリンが大好きです。どうぞ神様を賛美する為に、私のピアノとバイオリンを用いてください。ピアノとバイオリンで賛美させてください!」という祈りと思いがさらに強くなりました。

それにしても、先生の演奏はほんとにすてきでした。先生の音、弾き方、表現の仕方はすばらしかったです。私のバイオリンも、最大限にいい音を引き出していただき、バイオリンも嬉しかったんじゃないかと思うくらい。すごく勉強になりました。嬉しかったのは、ほとんど初見でドキドキしながらのピアノ伴奏だったけれど、初めて合わせたとは思えないくらい、結構いい感じで合わせられ、先生に「かおりさんの伴奏、すごく弾きやすいですね。いや〜、久しぶりに楽しく弾けました!」と言っていただいたこと。昔からずっと伴奏大好き♡なので、伴奏者としての私には、一番嬉しい言葉でした。

たまたまレッスンに一緒に行って、私達の演奏を聴いていたJの感想:「ママはピアノ弾く方がいいよ。」
私:「…?どういう意味?」
(Jいわく、「ママは、バイオリンもがんばっているけど、ピアノの方がもっと上手だね。」という意味だそうな。優しい息子よ、あたたかい励まし、ありがと〜!)

JとKevinに、「ママのバイオリンも上手になったね」と言われるようになることをめざし、教会でバイオリン・デビューする日を楽しみに、これからもがんばろ〜。

キッズ英語クラス

先週、今週と、2週間で計4回、「夏期集中こども英語クラス」をしました。火曜日と木曜日の午後、1−2時の「幼稚園〜小学3年生のクラス」、3−4時は「4年生〜6年生のクラス」で2クラス。合計約20名のお子さん達が参加してくれました。教会にいつも来ている子達も、もちろん参加してくれましたが、教会のRさんのつながりで、Rさんが個人的に配布してくれたチラシによって、今回まったく初めてのお子さん達もずいぶん参加してくれました。私はいつも、Rさんの存在と交わりに、いろいろ教えられ、励まされているのですが、今回は特に、Rさんの賜物を通して、神様のご栄光が現されたことを痛感し、本当に感謝でした。そして大いに助けられ、支えられました。

クラスでは、Kevinがメインの先生として教えましたが、短期宣教師として来られている若〜いご夫妻、S兄とE姉が、準備や、クラスのアシスタント先生として、良い働きをしてくださいました。また、教会の方々も大勢、いろいろなところで関わり、奉仕し、支えてくださいました。私は、Jが風邪をひいたり、教会の他のことや、自分自身の体力のこともあり…でエネルギー不足を感じるこの頃。英語クラスの時は、受付に座って様子を見たり、クラスの為の準備、設定の手伝いをしただけで疲れてしまい、以前のように子どもたちに積極的に関わるという形での奉仕はできませんでした。でも、そんな私の弱さを補って余有るほど、教会の方々のご奉仕や存在に助けられ、励まされ、支えられて、神様の体なる教会が、それぞれに機能して一致して働く姿を見せていただき、そういう意味でも私には大きな祝福でした。感謝♪

ケガも事故もなく守られ、子どもたちもお母さん方も、新しい知り合いが増え、楽しく英語クラスをすることができて、本当に嬉しかったです。すべて御手の中で守り、導いてくださった神様に感謝!そして、何週間もかけて、教材を選び、勉強し、クラスのデコレーションやテキスト、視覚教材を作り、自分も体調があまり良くない中、主にすがって良い働きをすることができたKevinを見ながら、私もいろいろ教えられました。教材準備の「工作」には、短期宣教師のS兄、E姉と共に、Jもいろいろ手伝ってくれました。E姉は、独身の時にも2回くらい日本に来て、週日にいろいろ私達の為にお手伝いをしてくださって、前から知っている方です。その彼女が結婚し、ご主人と共に今回短期宣教師として来日し、将来的にも「宣教師」という働きを視野に入れて祈っているので、彼らの今後も、主がどのように導いてくださるのか、楽しみに祈っていきたいと思います。

忙しい2週間でしたが、神様に守られ、多くの方々の祈りに支えられ、まずは倒れずに責任を果たすことができて感謝です。なるべく早い時期に、教会として「こども英語クラス」を再開する予定でいます。神様が良い導きを与え、このミニストリーを祝し、私達にとっても大きな喜びとなる働きにつながっていきますよう、お祈りください。

Thursday, July 30, 2009

Happy Birthday, J!

今日は、うちのJ君のお誕生日。いよいよティーンエイジャーに。最近、急激に成長しているスピードに体が追いつかず、いろんな疲れもたまったのか、今週は風邪で熱を出してダウン。今日はだいぶ良くなって力もついてきたようですが、ささやかに、家族3人でしみじみ〜とお祝いしました♪

それにしても、Jの誕生日の為、教会のおばちゃん達からカードとお祝い、教会のお兄ちゃん、お姉ちゃん達からもプレゼント、カード、電話、メールでお祝い、両方のおじいちゃん、おばあちゃんからはもちろん、アメリカからも何通ものバースデーカードが届き、皆さんの心遣いや愛と祈りに、ただただびっくり。こんなふうに、たくさんの方々の愛と祈りの中で、イエス様を信じて生きることができるよう、祝福し導いてくださっている神様に、そしてたくさんの方々に、親として感謝の言葉もないほどです。ありがとうございます。

だんだん身長も私に近づいてきて、足のサイズは私のサイズよりも大きくなり、声変わりもし始めたJ。大人になったな〜と思う時、まだまだかわいいな〜と思う時、ずいぶん生意気なことを言い、痛い所をついてくるようになったなぁ〜と思う時、いろいろですが、神様がJをうちの子として生まれさせてくださり、一緒に家族として過ごせる今、いっぱい愛して、愛されて(時にはケンカもして、ちゃんと仲直りして)、私やKevinが神様からいただいたもの、またそれぞれの家族を通して培って、受け継いできたことをどんどん伝えていきたいな…と思っています。そして、神様を愛し、従い、喜んで仕える人になってほしい!私たちの祈りと願いはそれに尽きます。

Jに与えられている賜物は、これからどんなふうに磨かれ、神様の為に用いられていくのかな〜。ARTへの思いが強く、Jには一番の楽しみや喜びであり、自分なりに鍛錬を重ねているようですが(思い入れが強いほど、喜びや楽しみだけでなく、苦しみや葛藤も強く多いんですよね〜)、神様がこれからどう導いてくださるのか、楽しみに、期待しつつ祈っていこうと思っています。

Saturday, July 25, 2009

<信じれば助けてくださる!>

数年前に、親しい友人であるピーター・ドラッカーの家を訪問しました。ピーターは純粋なルネッサンスの人間であり、現代経営の父であり、20世紀の最も明晰な思想家の1人です。私はピーターに尋ねました。「どのようにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れるようになったのですか。」彼は少し考えてから答えました。「ようやく恵みに気がついたあの日、この世にこれ以上利益のあるものはない、ということに気がついたのです。」

イエスが十字架で私たちの罪の代価を払われた時、信じない人々は取り囲んで、主をあざ笑いました。「お前が本当に神の子なら、十字架から降りて自分自身を救ってみろ!」もちろん、イエスは彼らを無視しました。イエスがこの地に来られた目的は、自分を救うことではなかったからです。イエスは、ご自分を救うために来られたのではありません。イエスは、あなたを救う為に来られたのです。

イエスに「はい」と答えることで、あなたが失うものは何でしょうか。罪責感、不安、目的のない人生、死への恐れ、絶望、心配、恥、そして神の導きなしに1人で背負って生きてきた多くの重荷も捨てることになります。このような申し出を拒む人がいるでしょうか。

しかし、神はあなたに選択権を与えられました。あなたは神と離れ、自己中心的な人生を歩み続けることもできます。あるいは、自分の道から心と向きを変えてイエスに従うこともできます。このUターンを「悔い改め」といいます。すべての罪の赦しを求め、神の御子イエスが、あなたの為にしてくださったみわざを信頼してください。

「イエスに出会いたい」/リック・ウォーレン

Thursday, July 23, 2009

キキ

キキをイエス様のもとに送って、今日でひと月がたちました。このひと月は、何かにつけてキキを思い出し、涙、涙で過ごしました。でもたくさんの人の愛や祈りに支えられ、何よりも神様の愛と恵みに満たされて過ごす事ができ、寂しさの中でも本当に感謝にあふれたひと月でした。キキの亡きがらを、その日のうちに実家に車で連れていって、父や母のところで、代々かわいがってきた他のペット達を埋めてきた、庭の梅の木の下に一緒に埋めてあげられたことも、本当に神様の優しい心遣いでした。また、私たち家族のつながりも、キキの死を通してさらに深められたと思います。

Kevinのお母さんに、キキのことを報告した時、「これから4週間、自分の為にとって、存分に泣きなさい。そしてまた前に向かって歩みだすのよ。」と言われました。私の父や母も、私の悲しみや寂しさを一緒に受け止め、静かに見守ってくれました。弟や、義妹のTちゃん、親友のMちゃん、教会の人達、本当に私達の悲しみや寂しさを共有し、一緒に泣いてくれました。キキを通していただいた神様からの祝福は、数えきれないくらいありますが、キキの死を通して、なおさらその祝福と恵みが痛いほど身にしみて、キキの存在が、どんなに尊い神様からの贈り物だったのかを思わされています。

他の人が見れば、一匹の猫にすぎなかったかもしれません。でもキキは、結婚したばかりの私が、アメリカでKevinと一緒に自分達の家庭を築きあげる為の大事な土台の一つとなってくれた存在でした。Jが生まれた時から、私達はキキと一緒にJを育ててきたようなものでした。そしてアメリカ中を回ってサポート・ディスカバリーをしている間中、キキはいつも留守番して、私たちが帰る「家」という存在と空間を保っていてくれました。アメリカから日本に引っ越す時も、一緒に飛行機に乗って日本に来て、今度は日本で「我が家」を建て上げるための大事な要となってくれました。変化が多く、たくさんの調整が必要だった時も、いつもキキの存在によって、「ここが私たちの家だ」ということを確認でき、アメリカでの生活と日本での生活の橋渡しとなってくれました。私たちが2度、長期で一時帰国した時も、キキはいつも通り留守番をして、私たちの帰りを待っていてくれました。キキの存在によって、神様は私たちに本当にたくさんの支え、力、励まし、慰め、希望を与えてくださいました。

15年も一緒に過ごしてきたキキ。キキは、漢字で「喜姫」と書きます。私にとって、キキは本当に「喜びをもたらしてくれる、大切なお姫様」でした。キキのいない生活に慣れるには、まだまだ時間がかかりそうだし、今でもキキを思い出して、私と一緒にいないことをしみじみ感じると涙が溢れてきますが、キキと一緒に過ごした15年、本当に幸せな15年でした。私にとっていろんな意味で激動の15年でしたが、イエス様がキキを私達のところに送ってくださって、本当に幸せな感謝な時間でした。おりこうなキキは、死ぬ時も、女王様のようにりっぱでした。私のこと、私が思う以上に、神様が気遣ってくださり、キキをそのように生かし、死なせてくださったんだと思います。キキをいっぱい愛し、キキにもたくさん愛してもらったな…と思います。キキ、ありがとう!

Saturday, July 18, 2009

<合わせて100点>

今回、聖書を読みながら新たに悟ったことがあります。それは、罪を犯す前でも、人が神の目に良くない時があったということです。それはアダムが独りだった時でした。それで神はエバを創造されました。すると神の目にとても良く見えました。独りではさほど良く見えなかったのに、二人が合わさるととても良く見え、100点になったのです。

人は誰でも1人では完全ではありません。しかし、「私たち」なら完全になることができます。私の目に映る多くの人の点数は95点なのですが、そこに私の5点だけを補えば、私たちは神の目にとても良いものとなるのです。3人が合わさって100になることはもっと易しいことです。

しかし実情は、その反対の場合が多いのです。人が多くなれば多くなるほど、100点を取ることが難しくなります。それは、私たちが合わさって100点を取ろうとするより、各々が100点を取ろうとするからです。お前は30点足りない、お前は15点足りない。45点も足りないお前が、どうやってその仕事ができるのか、となじるからです。こうなるとお互いに苦しくなります。知恵のなかった時は、出会う人ごとに100点を強要しました。その人の点数が95点でも、残りの5点を埋めて100点を取れと言うのです。絶え間なくその5点を指摘し、批判しました。その足りない部分が、私の足りなさだとは思わなかったのです。それを私が埋めて、100点にしようとは考えなかったのです。

今、秘訣がわかりました。私たちは私たち独りでは100点を取ることのできない存在です。しかし、人が多ければ多いほど、100点を取ることは易しくなります。これはどれだけ楽しく、幸せなことでしょうか。合わせて100点ならば幸せなのです。

「パイプ幸福論」/チョー・ヒョンサム

Wednesday, July 15, 2009

<クリスチャンの香り>

造花は偽物の花です。しかし、造花は生花よりずっと派手で誘惑的です。本物より本物のように見えるのに、偽物です。造花が生花よりきらびやかで美しく見える理由が、そこにあります。造花には香りがありません。香りはいのちあるものの、密かな自己表現だからです。香りはそれらを生き生きとさせ、まばゆい生命力を存分に謳歌する者たちの持つものです。

ところが香りは、香りを放つ場所を選んだり、制限したりはしません。気に入らない人には香りを放たない、ということはありません。このことは、私たちが人や場所を選ぶことなく、香りを放つべきであることを意味します。ちょうど太陽の光が、良い人にも悪い人にも分け隔てなく照らすのと同じようなものです。

しかし私たちは、誰にでも同じように香りを放ちたくない、という誘惑にかられる時があります。もちろん自分を非難し、そしる人に香りを放つことは、決してやさしいことではありません。

しかし、香りの木は、自分を切り落とす斧の刃にさえ香りを放ちます。それは困難なことです。しかし、困難を乗り越えることこそが、香りを放つ美しさです。聖書は、私たちがキリストの香りを放つべきであると語っています。もし、私たちが香りの木のように、自分を切り落とす斧の刃にさえ香りを放ち、その凶器を香りに変えることができるなら、その小さな香りが広がったこの世は、どれほど美しいことでしょう。また、どれほどよい香りになることでしょう。

「香り高き世」/イ・スンウ

Sunday, July 12, 2009

<真理が聞こえない人>

20世紀の最高の知識人といえば、おそらくイギリスのバートランド・ラッセルを挙げることができます。ラッセルは幼い頃から、非常に賢い子どもでした。教会に通っていた彼は、その高い知能で聖書をたくさん読みました。そして、牧師達よりも聖書についてよく知っていると思うようになりました。彼は、自分の知識でたくさんの牧師たちを負かし、彼らの貧しい聖書知識をばかにしたりしました。ラッセルが、その広い知識を生かして書いた本のタイトルは何でしょうか。「私がクリスチャンでない理由」です。聖書を根拠として、キリスト教の虚構性を痛烈に批判する内容です。ラッセルは、聖書に関する豊富な知識によって、かえってイエスを信じることなく傲慢になり、キリスト教をばかにするようになったのです。

私たちは、みことばを読むと明らかに変わります。しかし、なぜラッセルは変わらず、むしろその知識の為に、イエスを救い主と信じなかったのでしょうか。

理解しがたいところです。悩んだ末に出たこたえは、「黙想」でした。

ラッセルは、聖書を情報や知識として知っていただけで、黙想はしませんでした。どんなにたくさん読んでも、黙想のないみことばは、1人の人を変えることはできません。黙想しなければ、みことばを知っていることが、かえって霊的な妨げになります。知識としてのみことばと、黙想したみことばはまったく違います。その為に、ラッセルの人生は、このような結果になってしまったのです。

「みことばとともに、主とともに」/ユ・ジンソ

Wednesday, July 1, 2009

<後ろ盾になってくださる主>

私たちを造ってくださった主よ
あなたはこの世のどの父親よりも強い方です。

私たちの住むこの世は、コネや人脈などがなければ
まるで雨に打たれる落ち葉のようです。

しかし、天の父なる神様、
この地を造られ、すべてのすべてであられる方が
私たちの手を握ってくださるため、堂々としていられます。
私たちは萎縮しなくてもいいのです。
そして、私たちは何でもやってみることができるのです。

主よ、あなたは私たちの後ろで影のように臨在してくださり、
御霊によって行く道を導き、
私たちの痛みをさすってくださる方であるため、
私たちはつまずいても、すぐ立ち上がり、
理不尽な目にあっても
毅然としていることができます。

王の王であられる主よ。
私たちの後ろ盾になってくださり感謝します。

主が私の父となってくださり
心強いです。
いつでも、どこでも…。

「今のままを感謝します」/パク・ギョンヒ

Saturday, June 20, 2009

<崖っぷちに立つ冒険>

私は運転免許の試験を受けたある地域で、次のようなバンパーステッカーをもらいました。「安全運転!あなたが救う命は、まさにあなたの命です。」この警告には、人間の純粋な考えが表されています。しかし、イエスは正反対の原理を教えられました。「自分のいのちを救おうとするなら、それを失わなければならない。」恐ろしさや怖さを感じてうずくまり、拳を握り締め、自分を守り、保護しようとする人生は、私達や他の誰にも、また何より神とその御国にとっても、何の意味もないもので終わってしまいます。イエスが歩まれた人生は、それを知らない見物人には愚かなものにしか見えないでしょう。その方は、お金、家、車もなく、制度的な支援も受けることができませんでした。その方の友人達は頼れる対象ではなく、その方の死はスキャンダル、すなわちこの世を永遠に変えてしまったスキャンダルでした。

未来に対する私達の心配の崖っぷちには、私達を新しい別の次元の信仰へと呼ばれる神がおられます。神の導きの為に祈り、私達が見える地点の終わりを歩いて行く時、息を殺して未知の領域に第一歩を踏み出す時、私達は次の二つのうちの一つがあることを信じなければなりません。神は私達が降りていって立つことのできる岩のような堅固なものをくださるか、もしくは私達に、飛ぶ方法を教えてくださるかです。    

「私の魂のバンジージャンプ」/ルーシー・ショー

・・・・・・・

<一節の黙想>マルコ8:34-35/エリザベス・エリオット

十字架を負うということは、犠牲と損を前提とします。イエスは真のいのちを得たいなら、自分のいのちを捨てなさいと言われました。先になりたいなら後になり、仕えられたいなら仕える人になりなさいと言われました。一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままで、実を結ぶことができないと言われました。私達が絶対に忘れてはならないことは、イエス様はその道を、私達より先に歩まれたということです。                

Wednesday, June 10, 2009

かる〜く、楽しく♪

今日は、3週間ぶりに、風邪でお休みしていたバイオリンのレッスンに行くことができました。行く前までは体力的にちょっと心配だったのですが、バイオリン担いで自転車をまったりとこいでいるうちに、血行も良くなってきたのか、体も心も上向きになっていきました。いつも受付のところで事務をしている、ピアノの方のクラスの先生に、「しばらくぶりでしたね〜。大丈夫ですか?」と声をかけていただいて、それもなんだか嬉しく、バイオリンの先生とも久々の再会を喜んで?いい気分でレッスンを始めることができました。

最初の音階練習はまずまずでしたが、曲になった時、バイオリンの持ち方がちょっとずれていて、持ちにくいのをなんとか持ちこたえて弾いたところが、体も音もガチガチ。ものすご〜く固い音になってしまいました。

先生に、「そんなに固くならないで、かる〜く、楽しげに、踊りながら弾く感じで弾いてみてください。なんなら、この部屋の中を自由に動きまわってもいいですから。」と言われ…。

う〜ん。先生の言いたいことはわかるけど、動き回ろうとしたら、絶対バイオリンも弾けない…(-"-;)

ということで、動き回りながらバイオリンを弾くような、高度な技術を要することは御免していただき(?)、でも自分の中で「かる〜く、楽しく、きれいな音で」と思って、そんなイメージでバイオリンを弾いてみました。

そしたら驚いたことに、ワンフレーズ弾いたところで、先生に猛烈に拍手してもらっちゃいました!「すごい!今の音、全然違ったじゃないですか〜。とってもきれいな音でしたよ〜!すごい!」と。

ほめられてびっくりして、でもなんとなく感じがつかめたので、もう一度最初から弾き直して一通り弾きました。そして花丸〜♪ やった〜!p(^^)q いい気分で、一曲仕上げることができました(*^_^*) あまりにもヘタクソで、ほとんどあきらめていた曲だっただけに、こんなにいい気持ちで仕上げることができて、嬉しさもひとしおでしたヽ(^0^)ノ

弓の持ち方、バイオリンの持ち方、指の動かし方、自分の中でしっくりくる方法をさぐり、同時に自分のくせでなく自然に正しい方法を学び…と試行錯誤のトンネルに入り込んでいましたが、前回のレッスンの時、先生に「私も最近、もう一度弓の持ち方をさぐっているんです。」と言われて、やっぱりそういうものなんだなぁと思ったら、なんとなく気持ちが楽になりました。そして、そういえば私も、ピアノの弾き方を最近さぐっていることに気づき、そういうプロセスを経験して、続けていくことの大切さを実感しました。悩みは続くけど、発見も続いて、それが楽しくて満たされるから、私でもやめないで続けていられるんだよなぁ…なんて思ったりして。

そんな中、今日の「かる〜く、楽しく、きれいな音で」は、すごく大きな出来事でした。「そうだ、『きれいな音』の為に工夫や訓練や学びが必要なのであって、枠にはまっていつでも同じ!っていうのでなくていいんだ。そりゃそうだよね。そしてリキんで固くならないように、力をぬいてリラックスして楽しんで…って、そっちの方にもっと心を向けていいんだな…。」と改めて、ある意味初めて思いました。

そういえばTCC時代、ピアノでスランプに落ち込んでいた時、先輩のMちゃんに同じことぼやいたことがあったなぁ。なんか、20年もたって、ようやく答えが見えてきたような気がしました。曲がりなりにも続けていると、それなりに学び、感じ、思い、考え、深められていくものだなぁと思います。「継続は力なり」って、昔の人はよく言ったものですね。

抽象的で、あまりよくわからないかもしれませんが、私にしてみたら、なんだか記念すべき瞬間というか、出来事だったので、忘れないように書いておこうと思いました。イエス様によって心満たされた時に感じる、しあわせ〜♪な思いでいっぱいです。きれいな音でイエス様に賛美をささげることを目指して、これからもピアノやバイオリンのレッスンを、「かる〜く楽しく」励んでいきたいです。

Monday, June 8, 2009

JはTVディレクター?!

夕食後、NHKの「クローズアップ現代」で、電気自動車についての特集をしていたので、Jと一緒にみました。

小さい頃から車大好き、電車大好きのJ。どこででも、何でも、タイヤさえついていれば目を光らせて突進していくJを見ながら、Kevinと「タイヤさえついていれば、Jにはお宝なんだねぇ。」と、よく話したものでした。

その「車大好き」は、今ももちろん健在。気になる対象、興味関心のある対象が、ミニカーから実際の車にまで広がってきて、あれがいい、これはいやだと、デザインや色に目を光らせ、車の絵を描くのも、描き方を学ぶのも大好きです。そんなわけで、さっきもテレビの画面に映る車を見ながら、「Jはあれが好き」「あ、あれはいやだ!」と、妙に熱く語りながら、熱心に見ていました。

二人でいろいろ話しながらテレビを見ていたのですが、私は別にネットでいろいろ調べながらの「ながら族」(古いことばですが…f(^_^;)。突然Jが「ちがう、ちがう!そっちじゃない、あっち!!」と叫びました。どうやら画面に出たのが、Jは嫌いなタイプの車だったらしく、自分の好きなタイプ、デザインの車をもっと見たかったJ、思わずテレビの画面を仕切る態度に?!

突然大声を出すのでびっくりして、Jとテレビを見たら一瞬にして様子がつかめたママ(うん、さすがママ)。思わず吹き出して「ちょっと、こんなところでJがカメラ仕切ったって、Jの叫びは、テレビのひとには聞こえませ〜ん。」と大笑い。Jもそう言われてはっとしたらしく、それもそうかと照れ笑い。笑いと気管支炎の咳が重なり、ゲラゲラ、ケホケホが止まらないママでした。

今夜はミーティングに参加する為、Kevinが留守なので、Jと二人で夕食を食べました。結構な量のご飯を、おいしそうにペロッとたいらげて、「Jもよく食べるようになったよね〜」と言ったところでした。Jの成長を実感するこの頃です。小さい頃からいろいろと楽しませてくれるJですが、成長と共に、そのおもしろさ、楽しさも広がり大きくなってきました。これからの成長もますます楽しみです。イエス様、みことばの約束通りに、Jをいつも見守り、助け、育ててくださいね!と、ついお得意の「脅迫の祈り」をしてしまう私です(^^)

またまた更新手続き

今年は免許の更新だけでなく、パスポートの更新の年でもあり、今日はパスポートセンターに行ってきました。

前に、Jのパスポート更新で行った時は、二人で電車で行きました。今回は、バスで行ってみようかな〜と思っていましたが、まだ気管支炎で咳コンコンなので、優しいKevinが車に乗せて行ってくれました(*^_^*)ありがと〜♪

月曜の午後ということもあってか、Jと一緒に午前中に行った時とは全然違って、ずいぶんすいていました。書類を書くのも、アメリカ式にアルファベットを使って表記してもらう為に、申請用紙とは別の書類も書かなくちゃいけなくて、過去何回かの更新はいつも時間がかかって、書類を書くのも面倒で…(>_<)という印象が強いのですが、今回はなんだかとってもスムーズに、短時間で終わりました。あとは15日以降、新しいパスポートを取りに行けば、あと10年OKです。

免許の更新も、パスポートの更新も、ついうっかり忘れてしまうと大変なことになりますが、無事に手続きができて良かったです。なるべく早く手続きに行こうと思っていた矢先に風邪を引き、長引いてなかなか治らず、ちょっとあせり気味だったので、なおさら無事にすんだ安心感が増しました。ついつい先延ばしに、間際になってからでないと動き出さない私なので、いつもKevinがいろいろ管理してくれているのも感謝なことだなぁと思いました。新しいパスポートと免許を取りに行く時は、もっと元気になっているといいなぁ…。昨日、私の健康を心配して、祈ってくれたMさん、「ママの/かおりの健康を守ってください」と祈ってくれるJとKevin、そして皆さん、いつもお祈りありがとうございます。

Friday, June 5, 2009

お誕生日のケーキ

今夜は、教会の若者達5人がうちに集まりました。男の子2人と女の子が3人。今月から月に一度、金曜の夜に集まって、バイブル・スタディーと交わり会をすることにしたのです。

本当は夕食を作って迎えてあげたいところだけど、何しろ体力がなく、しかも最近は風邪が長引いている私。無理してもみんなに心配かけるばかりだし、「体力とゆとりがある時は何か作っておくけど、基本はそれぞれお弁当買って持ってきてね。飲み物はうちで準備しておくから。」ということにしてもらって、今日もそれぞれにお弁当を買って持ってきてもらいました。

そうしたら、「かおりさんのお誕生日のお祝いに、みんなで買いました」と、お祝いのケーキを持ってきてくれたのです!

ご飯を食べてから、ケーキにろうそくをたて(もちろん年齢分はたてきれないので?、8本だけ)、写真をいっぱいとってくれて、「Happy Birthday to you♪」を歌い、ろうそくを消して…と、子どもの頃のお誕生会さながらに、私の大事な大事な「霊の子ども」たちにお祝いしてもらって、大感激でした♡

ケーキの上にムースものっていて、フルーツもいっぱいの、とってもおいしいケーキでした。みんなどうもありがとう〜!お誕生日の日曜日は、風邪で体調の悪い一日でしたが、ちょっと元気になった今日、みんなにお祝いしてもらったのがとっても嬉しかったです。

その後のバイブル・スタディーも、とっても良い学びと交わりの時となりました。みんなと一緒に過ごせたこと、それぞれの霊的成長がよくわかったこと、そして愛と祈りが、何よりのプレゼントでした。次回の集まりも楽しみだなぁ〜(*^_^*)

Tuesday, June 2, 2009

免許更新

ご無沙汰しました。あっと言う間に6月になってしまいました〜。ご無沙汰の間、風邪をひいて寝込んでいました。ついでに体調の悪い中、お誕生日も迎えました。いのちをありがとう、生んでくれて、育ててくれてありがとうと、神様と両親、家族に感謝し、「お誕生日おめでとう!」と祝ってくれる友達や主の家族に、感謝いっぱいでした♡

風邪はまだ長引いていますが、ちょっと元気が出てきたかな〜という感じになってきたので、がんばって免許の更新に行ってきました。

…と言っても、うちから警察署までは徒歩4分ほど。しかもゴールド免許の優良ドライバーなので(ここに引っ越してきてからは、普段あまり運転しないので、違反も事故も起こさないわけですが?!)、今まで更新してきた中で、いっちばん楽な更新でした。

警察署の隣りの「交通安全協会」で写真をとってもらい、お金を払って、書類を作ってもらったら、警察署の「免許更新」のところで書類を渡して、視力検査。視力検査がOKだったので、20分余の講習ビデオを見て(しかも私ひとりで)、免許ができてきたら警察署で受け取る為の引換証をもらって、それでおしまい。ほんとにあっと言う間でした。

それにしても、講習ビデオで交通事故の恐ろしさをひしひしと感じました。歩行者優先だし、どんな場合でも、車両の方が悪い立場になるわけですが、みんながちゃんと自覚をもってお互いを思いやり、交通ルールをよく守って、注意して運転すること、自転車に乗ること、歩くことって大事だよね〜と思わされました。つい自分の立場を優位にもってきて、周りにもそれを期待してしまう、自分のとるべき責任や自覚をもたないで勝手にふるまうことって、何にでもありがちなので、運転免許更新用の講習ビデオだったとは言え、それ以上のことを考えさせられました。

主にあって謙遜に、神様の愛と恵みをたくさん受けて、それをわかちあって生きていかなくちゃなぁ…と、誕生日を迎えて新しい一年の歩みを始めるにあたり、いろいろ考え祈らされた「免許更新」でした。

Sunday, May 10, 2009

母の日

今日は母の日。実家のママ、Kevinのお母さん、第2の母のNおかあさん、そしてたくさんの「母」的存在の方々…。私は本当に、ママ、お母さん、おかあさん達、私の母的存在の方々を通して、神様からたくさんの愛、祈り、ケアを受けて育ってきました。そして今も、私を「娘」として愛し、祈り、支えてくれています。本当にありがとうございますm(_ _)m。年を重ねるごとに、その感謝の思いが、増すばかりです。

写真は、Jが母の日のプレゼントに、学校で作ってくれた指輪です。ばらの花のイメージで、よ〜く見ると、お花の部分がハートに見えるように工夫して作ってくれたんだそうです。

何日か前から「ママ、Jはプレゼント買わないことにしたから。その代わり、もっといいものがあるよ。」と謎めいたことを言って、絶対にそれが何なのか教えてくれなかったのです。でも今日教会で、礼拝後にふらっと私のところにやってきて、にやにやしながら何かを持っている手つきで、私の前に自分の手を差し出しました。その手つきから、てっきり何かのおつりでもくれるのかと思い、ぶっきらぼうに私の手を差し出したところ、なんとJの手からポロッと私の手に落ちたのは、このすてきな指輪でした♡

ママ、大感激!もちろん、教会中の人達に、「見て見て〜。これ、Jが作ってくれたの〜!」と見せびらかしてしまいました(*^ー’)b

一生大切にしていきたい宝物が、また一つ増えました♪。

Thursday, May 7, 2009

感動の再会?!

今日は、いつもの注射でT病院へ…。このところ、血液検査の数値が良い数値で落ち着いているので、この4月から、週3回だった注射を週2回にして、様子をみています。

いつものように、内科受付で「注射お願いしま〜す。」と診察券を出し、看護婦さんに名前を呼ばれて、カルテを受け取ったところ…

バタバタッと、誰かが診察室の中から出てきました。なんと、去年秋に出産されて、春まで産休を取っておられた、私の担当医だったH先生(もちろん女性医師です)!思わず手を取り合って、「あら〜!」と感激の再会を果たしましたヽ(^0^)ノ

今日から外来診察に復帰され、先生は午後の担当なので、受付のところで私の名前を耳にして、思わず中から出てこられたんだそうです。赤ちゃんもすくすく育っているそうだし、先生もお変わりなく、前よりも堂々とした「ママの風格」?も感じました。私はいつも、風邪などで具合悪くて病院に行っても、H先生の笑顔と優しい声に安心し、それだけで半分くらい元気になる感じだったのです。

産休中は、代わりにK先生(男性)に診ていただいていました。アメリカに留学されたこともあるK先生は、アメリカの医療事情にも詳しく、ちょうどKevinも私も、定期健診を受けなければならなかったので、英語が通じて、英語の診断書も書くことのできるK先生には、私の持病以外にもたくさんお世話になりました。そして産休中のH先生は、ず〜っと私のことを心にかけて、K先生ともいろいろ連絡を取り合ってくださっていたようです。

K先生もいい先生で大好きだけど、やっぱりH先生の担当がいいなぁ〜と思っていたら、前回の診察で、「H先生はもうそろそろ外来に戻るよ。今度木曜の午後だそうだけど、都合大丈夫?」と訊いてくださって、どうやら6月からはH先生の担当に戻されるようです。でも、今回の産休で、K先生の存在を知り、診ていただいたことで「Kevinに何かあったら、K先生にお願いしよう。」と、神様からの良い出会いともなったし、アメリカに行く時にも、T病院の医師チームで、私のことに対応してくださることになっているし、ほんとう〜に神様はすばらしいです。病気と共に、サポート体制もがっちりと固めて、私を守り、助け、励まし、支えてくださるのですから…。

病院なのに、久しぶりのH先生との再会が嬉しくて、思わず二人で大騒ぎ?してしまいましたが、本当に嬉しいサプライズでした!神様、K先生、H先生、そして仲良しの看護士さん達、皆さんありがとう〜。これからもよろしくお願いします。

Wednesday, May 6, 2009

ゴールデンウィーク

ゴールデンウィークは、月曜に教会のTさん&Mさんご夫妻のところにおよばれし、お二人の結婚2周年のお祝いと、最近神様がお二人に与えてくださった、すばらしい新居で、神様の祝福と愛に感動し、また楽しい交わりの時を持ちました。Jは、Tさんと一緒に将棋やチェスをして大満足。火曜の夜には、Kevinにもチェスを教えてあげて、男同士で楽しく遊んでいる様子がとても嬉しい光景でした。

火曜、水曜は、あいにくの雨模様ということもあったし、教会の方のことで、いろいろと大変化を前にすることがいっぱいなので、Kevinと私はいつも通りにいろんな仕事、仕事…で、いろいろ心得ているJは、一人で新作マンガの構想を練ったり、レゴやゲームで遊んだりしていました。

とは言え、せっかくのお休みだし、何かいつもと違うこともしたいなぁと思い、昨日(火曜日)の午後は、Jと一緒に、ひさ〜しぶりにオートミールクッキーを焼きました♡ケーキだったら、オーブンに入れてしまえばそれでおしまい、出来上がりを待てばいいのですが、日本の小さいオーブンでクッキーを焼くのは、なかなか大変〜(>_<) うちのオーブンでは、一回に8個分くらいしか焼けないので、合計4ダースも作れるアメリカのレシピ分を焼き終えるまで、焼いてはまた焼き…の繰り返し。なんだかとっても重労働でした…(x_x;)

でも、あっさり、ふっくらと焼けてとってもおいしい!特にKevinには久しぶりのなつかしい味。今回は、どこにもお裾分けせずに、家族でちまちま食べています。そうそう、このクッキーはJと私で作ったので、Jにとっては、良い「ママとの時間」になったようです♪

ゴールデンウィーク最終日の今日も、結局、Kevinと私は、なんだかんだといろいろ仕事に追われましたが、夜は家族でスペシャルタイム。ピザを注文して、みんなで映画を観て楽しみました。日本ではまだ公開されていない、ディズニーの「Bolt」。犬、猫、ハムスターのコンビが我が家にうってつけ?! 大笑いして観ていたけれど、最後は感動でほろっと涙…(ρ_;) なかなか良い映画でした。

さぁ、また明日からがんばろ〜。

Tuesday, May 5, 2009

伯母からの電話

先日、母の一番上のお姉さんのご主人(つまり、私の「おじさん」ですが)が亡くなりました。母から電話で聞いて、カードかお花でも送ろうかなぁと思っていたのですが、いつも行動の遅い私。母から「お花でも送ったら」と言われてからの行動となってしまい、反省、反省…。本当は、「おばちゃんにお悔やみのお花送るから。」って、自分から母に言おうと思っていたのですが、結局、いつものように親からのアドバイスのもと、弟夫婦との連名でお花を送りました。

伯母がとても喜んでくれたようで、先週うちに電話をしてくれたらしいのですが、申し訳ないことに私達は留守にしていて、母のところに電話があったそうです。母もわざわざ電話しなくてもいいから、と言ってくれたそうだし、まぁ、無事にお花は届いたようだから良かったと思っていたら、今日、伯母がまた電話をかけてくれました。

久しぶりの伯母の声。「もしもし〜」と出たら、「あ、かおりちゃんか?」となつかしい声にびっくり。「あら、おばちゃん!」なんだかこういう時は、タイムスリップしてしまいます。このTおばちゃんとは久しく会っていないのですが、子どもの頃の思い出やら、国際結婚するという私を励ましてくれたこと、結婚して2年目に弟の結婚式に出る為に日本に帰ってきて、結婚式で会ったおばちゃんが、Kevinに「かおりをよろしく。」と何度も言ってくれたこととか、いろ〜んなことを思い出しました。

時間にして2分くらいしかお話しませんでしたが、「わたしはまだまだ元気だから」と言う伯母に、「うん、おばちゃん、ず〜っと元気でもっともっと長生きしてね。」と言ったら、「はいはい」と笑って答えてくれました。母とは14歳くらい違うので、私にはおばあちゃんとおばちゃんの間くらいの存在のTおばちゃん。イエス様の恵みと祝福を受けて、元気で長生きして、同じ信仰をもってこの地上から天の御国に戻れるといいなぁと、祈りの思いを増し加えられました。

町内会の班長さん

今年度、町内会の班長さんを仰せつかりました。本当は去年度が当番だったのですが、途中アメリカに一時帰国だったので、次の方に代わっていただき、いよいよ今年度の班長は私。

前の班長さんが、いろいろと事細かに引き継ぎしてくださり、ご自分が失敗してしまったことで、気をつけないといけないことなどを丁寧に教えてくださったので助かりました。本当に、「きめ細やかな配慮」とはこういうことだなぁ〜と教えられました。

さて、班長の初仕事は「1年分の町内会費集め」。

4月中旬くらいには、そのお仕事をしなければならないのかと思っていましたが、なかなか班の取りまとめの方からの連絡がなく、やっと連絡が来たのが先週末。「ゴールデンウィークに入って、お留守になる方もいるでしょうし、今回は町会(ちなみに私レベルの町会班長は出なくても良い)がいつもの月より早いので、もし集金が終わらなければ、来月の町会の時でも大丈夫ですから…。」とのこと。うちのお向かいのHさん(いつも私が留守になる時、キキのお世話をしてくださる方)が、町会の理事さんだか、何か責任のある役目をされているらしく、班の取りまとめ役のIさんの上の係なんだとか。「へぇ〜」と、今まで知らなかった町会のことがちょっとわかってきたような…?Hさんも、私が今年度班長ということで、いろいろと個人的に教えてくださったり、便宜をはかってくださったり、本当に助けられています。

早速、昨日から町会会費の集金に回っています。

ここに住んでもう5年になるので、この辺の方はもう顔見知りだし、JやKevinがいろんな意味で目立つし(?!)、「こんにちは〜。」とお宅にお邪魔すると、「あ、今年はあなたが班長なのね〜。ご苦労様。」とあたたかく声をかけてくださり、町会費の集金もスムーズにできて感謝感謝。お隣やお向かいの方々は、しょっちゅう顔を合わせていて、いつも好意をもって私達家族と接してくださっているので、それもあるのか(?)、集金に行ったはずが、玄関先で長話になったり、ほんとに神様はいいご近所に導いてくださったなぁ〜と思わずにいられません。

やっぱりゴールデンウィークでお留守の方もいて、全部集金は終わってませんが、なんとか初めてのお仕事も無事にすみそうです。回覧板や市報などの配布、いろいろお仕事はありますが、いつもお世話になっている皆さんに、感謝の思いをこめて、班長さんの仕事を果たしていけますように、お祈りしながらがんばろうと思っています。

Wednesday, April 22, 2009

春のお花

横に出るはずが、縦になってしまいましたが、これ、うちの近所のお宅のブロック塀のところに咲いていたお花です。毎年この時期、ひっそりとけなげに、そしてかわいらしく、道ばたに咲き始めます。このお花を見ると、「春だな〜」と思うのです。

毎年携帯で写真を撮るのですが、あまりうまく撮れなくて、「残念賞」ばっかりでした(>_<) でも今回はまあまあ、雰囲気がわかるようには撮れているかな〜と思い、アップしました。(もう少し、写真の腕をあげたいところですが、うちは父と弟がセミプロ?写真撮り係だったので、私はあんまり写真を撮ることに興味なく生きてきて、あんまり写真の撮り方って意識にもなく、よくわからないんですよね〜。でも最近になって、父の良き友、Oさんに刺激されて、お花や自然の写真撮りた〜いと思うようになってきました。すばらしいカメラがあるわけじゃないけど、とにかくいろいろ撮っていくと、その時の感動は自分の中で記録できるかな…と、携帯のカメラでちまちまと、あちこちのお花を撮りまくっているこの頃なのです。)

子どもの頃は、うちの母の好きな「イヌフグリ」が咲き始めると、それを母のおみやげに摘んで(?)家に持って帰りました。いつも母が喜んでくれるのが嬉しくて、イヌフグリを見ると、子どもの頃のなつかしい思い出がよみがえってきます。

なぜか最近、このへんではイヌフグリを見ないのですが、このピンクのお花が、今の私の「春の花」。最近は、近所のお庭にたくさんのお花がきれいに咲いていて、ぶらぶらと歩いていても、心が和み、癒されます。うちの玄関先のお花達も、元気に咲いているので、「プラントキラー」の汚名も返上できそう?

Wednesday, April 15, 2009

イースター

4/12はイースターでした。受難週を過ごす間、風邪だったのか、猛烈に喉が痛くなって微熱を出したり、いろいろな意味で自分の計画していたように事がうまく運ばなかったり…ということも多かったです。でも、家庭集会でもみことばの分かち合い、祈りと交わりができて励まされ、皆さんのお手伝いをいただいて、教会の事務作業が進み、何よりも本当に私のことを覚えて祈ってくださる方々の祈りと神様の愛に支えられました。

イースター礼拝では、最近は恒例となった、フレンチホルン、バイオリン、ピアノで合奏して、前奏や賛美の伴奏をしました。音楽的には、ちょっと次回に課題も残りましたが、フレンチホルンを演奏してくださったHさんも、バイオリンのJさんもとても楽しかった、またやりましょう!と言ってくださったので、次回も楽しみです。

また今回は、ず〜っと祈り求めてきた、ソプラノのすばらしい歌声を持つM姉妹との賛美(彼女の独唱+私のピアノ伴奏)が実現しました!

Mさんは、ハイレベルの音大を卒業し、プロの歌い手、舞台歌手としての経験を持つクリスチャンです。年は私よりも若いのですが、初めて会った時から、なんだか幼なじみに感じるような親しみや、クリスチャンホーム育ち特有の匂い?のようなものを感じ、私には本当に大切な信仰の友、主にある姉妹です。それに加えて、音楽という共通のものがあるので、なおさら気も話も合うのでしょう。それで、ずっと「いつか、Mさんの独唱に私のピアノで、一緒に賛美できるといいね〜」と話してきました。

去年の秋頃、KevinがMさんに「ぜひ独唱で賛美してほしい」とお願いしたら、神様の時が熟してきたのでしょう、Mさんが快諾してくださり、一緒にいろんな独唱の賛美の曲をみて、イースターの為に「The Holy City」を歌うことに決めました。

音取りはまぁまぁうまく行って、本格的に私も伴奏の練習を始めたのですが、長いことクラビノーバばかり弾いていて、本物のピアノと感覚が違うこと、また、クラビノーバで伴奏譜通りに弾こうとしても、楽器の限界で弾きこなせない、それに私自身、学生時代だったらもっと弾けたでしょうけれど、今、それだけの力がないことなど、次々に壁にぶつかりました。合わせて練習すると、自分の中でそれがものすごくはっきりとわかって、かなり動揺したり、落ち込んだり…。

でも必死になって「イエス様を賛美する為の力で満たしてください」と祈り、毎日弾いては落ち込み、落ち込んでは弾き…の繰り返しでしたが、この曲をユーオーディア・アンサンブルで演奏したCDを聴いていた時、はっとしました。「クラビノーバなんだから、クラビノーバで弾けるように、伴奏をアレンジしたっていいんじゃない。それに、自分の今の力で弾きこなせる伴奏の方が、無理して背伸びしている伴奏よりも、Mさんを生かし、支える伴奏になるんじゃないかしら…。」と思ったのです。

それから、何度もCDを聴いて勉強し、自分なりにいろいろ考え、イエス様からのアイディアも次々湧いて勇気づけられ、和音の動きを分散和音にすること、和音を省略したり、弾き方を変えるなどしてみたら、ようやく私自身の中でしっとりくる伴奏が形作られていきました。そしてきっと、Mさんも私に合わせてくれたのかな〜と思うのですが、練習を重ねる中で、お互いにしっくり、しっとりいく演奏になっていきました。

そして、イースターの2週間前から、Mさんが朝早めに教会に来て、教会で一緒に練習し、当日も練習し、二人で「ただ、あなたの御名にのみ、栄光を帰してください。私達の音楽はすべてあなたにおささげします。私達を主にあって一つとして、賛美のご奉仕をさせてください。」と祈りました。

結果は…

本当に、Mさんの賛美の声はすばらしかったです!私も、ところどころ小さなミスはあったけれど、音楽が中断してしまうようなミスからは、主が守って導き、隣りで譜めくりしてくれていたNちゃんの存在にも励まされて、なんとか伴奏の務めを果たすことができました。二人で、ただただ主に感謝の思いでいっぱいでした。

礼拝が終わって、「ありがとう〜」「お疲れさま〜」と二人で話していた時のこと。

「なんか、イースターまで、あっという間だったね〜。この調子で、クリスマスも来るのかなぁ。」とMさん。

「ん〜、ということはさ、来週あたりから、もうクリスマスの練習始めないと間に合わないね。」と私。

二人で大笑いして、でも、今回一緒に賛美のご奉仕ができたことで、お互いに霊的にも音楽的にも、良い刺激と学びができて良かったね、これからも、一緒に賛美していきたいね、賛美していこうね!と話しました。

教会の方々も、とても喜んで共に主を賛美する時となったようでした。あ〜、ほんとに感謝です。栄光はすべて主のものです。そして、音楽のいばらの道というか、十字架を背負う苦しみ?をまた久しぶりに体験したものの、それを通して、イエス様の受難、死、復活の栄光をさらに深く思うことができました。本当〜に楽しかったです。久しぶりに、音楽をじっくり味わう喜びに浸りました。さぁ、またがんばってイエス様に賛美のいけにえをささげていこう!と思わされました。

…と、ここまでは、私個人のことを書きましたが、イースター礼拝のKevinのメッセージも、なんだかとっても心に残るメッセージでした。普段教会に来られていないご家族の方なども来られたので、福音の種まきがしっかりとなされ、主が導いていってくださいますようにと祈らされています。たくさんの感謝、感激、喜びに満たされ、イエス様の愛と恵みの豊かさにたっぷりと浸りました。そして、ますますイエス様大好き!十字架、死、そしてよみがえりの、救いのみわざを感謝します!と、しみじみ思ったイースターでした。

Thursday, April 9, 2009

仕事の効率

今日は、家庭集会がありました。明日の受難日に備え、イエス様の十字架の聖書箇所を読み、その部分の解説を読み、いろんなことを分かち合い、話し合いました。その後、イースターの一人一人の備え、礼拝の奉仕と奉仕者の為、またお互いの為に祈り合う時を持ちました。体調を崩してお休みの人が多い日でしたが、良い家庭集会になりました。導いてくださった主に感謝です。

その後、お昼を食べてから、Kevinがこのところ一生懸命にまとめてきた、「教会員ガイドブック」の製本をする為のお手伝いをしてもらいました。一人分ごとにまとめて印刷してあるのですが、章ごとに分けるページとなるプリントを、目次のページに合わせて差し込むという作業です。結構面倒かな…と思ったのですが、4人で手分けして、見事なチームワークの中、あっと言う間に終わりました!ある人はプリントの整理をし、ある人は差し込みの作業をし…と、本当に効率よく、しかもそれぞれが気がついたところから始めていくことが、全体の作業がスムーズになる大きな助けとなり、その手際良さ、効率の良さ、そして一緒に仕事をすることの楽しさに感動でした!

作業をスムーズに進める為には、BGMが必要よね〜と思って、クラシックの音楽を聴きながら作業しました。本当に、こういう事務的な作業の時には、クラシック音楽のBGMって大きなサポートになりますね〜。おかげで仕事もさらにはかどり、とても楽しく作業と交わりができました。

快く手伝ってくださった姉妹達に感謝、感謝でしたヽ( ´¬`)ノ

Tuesday, April 7, 2009

日本の子

昨日、今日あたりから、新学期が始まったようですが、Jの学校は10日から始まります。忙しいイベント続きなので、春休みが長めなのは、ママがとっても助かってます。でも「のんびり春休み〜」というわけでもなく、Jはちゃんと学校の宿題もやって、イースターこども会の準備、後片付けの手伝いをしてくれたり、しっかり働いてくれています。

さて、最近、パンをたくさんいただいたこともあり、ず〜っとパン食の朝ご飯でした。学校の時は、お弁当もあるので大体お米のご飯が多いのですが、ご飯はあきないのに、パンだとあきてしまうらしいJ。今朝「ご飯何にする?」と訊いたら、「ご飯!それと卵。そしてみそ汁のご飯にして。あ、卵は目玉焼きね。」と、ずいぶんこと細かなリクエスト。

大急ぎでご飯をたいて、リクエスト通りの朝ご飯を作ってあげたらご満悦。にこにこと嬉しそうに食べていました。

それを見ながら、つくづく思いました。
「ほんと、Jって日本の子どもだよね〜。」

アメリカに行ってKevinの実家で過ごしていた間、おばあちゃんの作るアメリカのご飯はおいしいけど、すっかり飽きてしまって、ニュージャージーのミッショナリーホームで、JとKevinと私だけで過ごしていた間、私の作る日本食まがいの(スーパーに行っても日本とは食材が違うので、「まがい」をつけました)ご飯を食べて、ようやくほっとしていた様子も思い出します。

こりゃあJの奥さんは、日本人の女の子か、または日本食が作れる女の子じゃないとだめかな〜?と、先々のことまで考えて、一人にやにやしてしまうママでした。

イースターこども会

5日の日曜日、礼拝後に「イースターこども会」をしました。いつもはイースター礼拝の後に続けて、こども会をしていたのですが、今年は会場とスケジュールの関係で、こども会の方は1週間早く行なうことになりました。去年のクリスマスの時も、こども会とクリスマス礼拝を別の週に行なって、いろんな面で楽だったのですが、今回もほんとに別の週に分けて計画して良かったなぁと思います。神様のご配慮でした。

参加した子ども達は、全部で12人。都合で来れなかったお友達もいましたが、大人も子どもも一緒になって楽しむことができました。

それにしても、最近の子ども会では大人の奉仕者が増え、いろいろ責任をもってくださるので、プログラムごとに、その担当者に進行をまかせられるようになってきました。私、な〜んて楽になったんだろう…とつくづく思います。もちろん、最終的なチェックやら、確認やらは私がするのですが、会の最中に私が椅子に座って、他の大人の人達と話していられるなんて、2-3年前までは考えられないことでした。

うちの教会はまだ教会堂がないので、教会の荷物もかなり家で預かり保管している為、事前の準備、最終的な担当の割り振り、細かな計画や連絡の取りまとめはほとんど私一人でするので、その大変さはまだまだ私の受け持ちです。でも、おおまかなプログラムや内容を一緒に話し合って、おおまかな担当や奉仕の割り振りを相談して、それをまとめてプリントを作ってもらえるようになり、少しずつではありますが、チームとしての働きや奉仕の形が整いつつあるように思います。こういうのが教会の成長につながっていき、また教会の成長そのものなんだろうな〜と思って感謝です。

それに「チームワークっていいなぁ」と思ったのは、私がいろんなことを考えなくちゃいけなくて、ついうっかり抜けてしまったり、忘れてしまっていたことを、誰かが「〜はどうします?」「〜のこと、私がまたしますよ。」などと声をかけてもらえることです。それで今回もずいぶん助けられました。ほんとにありがたいことです。

ひたすら祈りに祈って迎えた子ども会。私は感謝でいっぱいで、子ども達も楽しく過ごし、そして大人の人達もなごやか〜なひとときを過ごせた模様。イエス様の憐れみと助け、そして教会のチームワークに「ありがとう!」の一言でした。さて、来週はいよいよイースター礼拝。今度は目一杯、音楽の奉仕です。合奏、独唱の伴奏、そして会衆賛美の奏楽…。準備して来る中で、たくさんのチャレンジと訓練と、そして祝福をいただいてきました。それをぜ〜んぶ、十字架の購いを成し遂げてくださったイエス様に栄光を帰し、感謝と賛美をささげる為にきよめて用いていただけますよう、練習し、準備し、備えていきたいです。

Friday, April 3, 2009

<私の人生の根源であられる主よ>

私がこの世に生まれる前から、私を知っていたと言われる主よ。

おかあ…さん、おとう…さん、初めて言葉を話し始めたとき、かみ…さまと呼んでくれることを待っておられた父よ。

真新しい名札をつけ、小学校に入学した時、落ち着きなく周囲を見回す私に「今からが世の中との戦いだ」と心配してくださった主。

おかっぱ頭に夢の多かった学生時代、その夢の中に、ご自分へのビジョンがこめられていることを願われた主。

純粋な恋に落ち、眠れぬ夜を過ごしたとき、その愛をともに喜んでくださった主。

多くの人々の祝福の中で、結婚という大きな関門をくぐり抜けたとき、「ようやく人生がどういうものかを考えるようになるだろう」と静かにつぶやかれた主。

子どもを産んで初めて、肉の親と霊の父の大きな恵みに涙を流したとき、満足げにうなずかれた主。

子どもたちは成長し、それぞれの道を見つけ出し、生涯のパートナーである夫と手を取り合って歩むとき、「あぁ、なんて美しい姿だ」と喜んでくださる主。

今まで私が歩いてきた人生という道を振り返り、深い感動を覚えます。

苦しく、もうできないと投げ出して、逃げようとしましたが、主はいつも「いいや。おまえなら必ずできる」と勇気と力をくださり、ここまで導いてくださいました。主よ、限りなく感謝します。

今のままを感謝します/パク・ギョンヒ

Tuesday, March 31, 2009

<Garaを持った人々>

ポルトガル語で、諦めずに最後までしがみつくことのできる力を持った人を指して、「ガラ(gara)」を持っていると言います。「ガラ」は「蟹のはさみ」を意味します。「ガラ」を持った人は、断崖からでも落ちない蟹のはさみを持っているのです。救いを得ることも同じことです。私たちは断崖の近くに行く時があります。さらにそこでつまずくこともあり、滑ることもあります。しかし、救いを得た人は、神の岩に爪を立ててぶら下がっているのです。

こんな話を聞いたことがあります。映画「ベンハー」を撮影している間、チャールトン・ヘストンは馬車の乗り方を教わるのにとても苦労したと話したそうです。彼はたくさんの練習を重ねて、ようやく馬車に乗れるようになりました。しかし、うまく乗りこなせるかどうか、まだ不安でした。聞いた話によると、彼はセシル・デミル監督にこう話しました。「馬車には乗れますが、競争に勝てるかどうかはわかりません。」その時、デミル監督はこう答えました。「ただレースに残っているだけでいい。そうすれば、あなたが勝てるようにしてあげるよ。」

イエス様もあなたに同じような確信を持つよう語られます。「ただ、レースに残っていなさい。」そうすれば神の国に入れるよう、主がすべてを導いてくださいます。「ガラ」を持った人々だけが救いを得るのです。

私に残された時間が一週間しかなかったら/マックス・ルケード

年度末

いよいよ3月も終わり。月の終わりというだけでなく、3月の場合は「年度末」でもあるので、ちょっと「大晦日」に似た思いがします。明日から4月ですねぇ…。そして「新年度」の始まり。早いなぁ。。。

2月は、すごい仕事量(内容も量も)に追われ、ほとんどの時間をコンピューターに向かって過ごしていました。そのせいか、「逃避」も兼ねて結構ブログの記事も更新できましたが、3月は出かけたり、人と会ったり…という時間が結構あったので、そちらに体力を使ったあとは、エネルギー不足であまり更新もできずに過ぎてしまいました。この3月にも、いろんなことがありましたが、それはまた落ち着いた頃に書けるといいなぁと思っています。

3月は、20日の祝日に弟家族がうちに遊びに来てくれました。KevinはANRCという、帰国者の為のミニストリーの大会に出かけてめずらしく2泊で留守。Jと二人きりだと、結局家の中にいるか、または良くても隣り駅のサーティーワンアイスクリームを食べに行く程度だろうと思ったので(いつものことながら、本当に出不精の私)、弟の所に遊びに行くか、来てもらうかしようと思っていました。で、よく考えてみると、義妹のTちゃんが産休も終わり、仕事に復帰するので、そうなるとなかなかうちに来てもらうのも大変になるだろうなぁと思って、結局「うちに遊びにおいでよ」ということになりました。

弟達に会うのは、1月のO教会献堂式以来です。あの時も楽しかったけど、今回はもっと時間もたっぷりあったので、もっと楽しかったな…。Jは一番お兄さんなので、年下の従弟達の面倒をみて楽しませてあげようと、近くの公園に連れて行く事や、自分のおもちゃで遊ばせてあげることなどをいろいろと考えていたようでした。こうしてみると、Jもお兄ちゃんになったね〜としみじみ感じます。そして実際に、甥達は大好きなJに連れられて、公園でも、Jの部屋でも大はしゃぎして楽しんでいたようでした。ちょっとケンカもしていたようだったけれどね…。こども達の様子を見ていると、自分が子供の頃に、弟、いとこ達、教会の友達と大騒ぎして遊んだ頃がと〜ってもなつかしいです。

弟は、花粉症真っ盛りに日頃の疲れもあり眠そうだったので、「ソファーで寝れば」と言ったら、本当にぐ〜っすりと眠っていました。ゆっくり休めたようで良かった、良かった。そして私は義妹のTちゃん、姪のCちゃんとた〜っぷり話して、だっこして遊んで、とても楽しかったです。ついでに、2番目の甥のYと一緒に、アメリカのチョコレートケーキミックスでチョコレートケーキを焼きました。まだ4歳でチョロチョロ君のYですが、私が言うとおりに、真剣に手伝ってくれて、とってもおいしいケーキが焼けました。夕ご飯の後にそのケーキを切って、それぞれに生クリームやイチゴで飾って食べるようにしたら、みんな大喜び!本当にアメリカのケーキミックスはおいしいし、役に立つなぁ。

Tちゃんが、帰りの電車の中からメールをくれて、「久々にとってもゆっくりできて楽しかった」と書いてくれました。とっても嬉しい一日でした。

Jは20日から春休み。でも、英語オンリーのカリキュラムは、「毎日18ページ以上進めること」という宿題、それと日本語でやっている6年生の授業の宿題もばっちりあって、毎日ため息つきながらもがんばっています。英語オンリーの方は、Jの英語力診断テストの結果を受け、実学年よりも下のクラスのものをやってますが、先生が「かなりがんばっていて、私の立てた予定よりも進み方が早いです」とおっしゃってました。日本語も英語も勉強するのは大変だけど、がんばれ、J!と、祈りつつハッパかけてます。

25日の夜は、この春大学を卒業し新社会人になる、教会の女の子達3人を家に呼んで「卒業祝い、焼きそばパーティー」をしました。3人共本当に私の霊の娘のようで、とっても仲良しなので、久々にゆっくり交わることができて楽しい時間でした。社会人になるにあたり、3人それぞれに箴言のみことばをプレゼントし、霊的老婆心から、ちょこっとアドバイスも。3人共真剣にみことばを受け取り、話を聞き「いろいろ考えさせられていたので、タイムリーにかおりさんのお話聞けて良かった」と言ってくれて、その素直で純粋な信仰にも、私は感謝感激でした。新しい歩みが祝されたものになりますよう祈らされます。「かおりさんの家に来ると、『ナルニア』見たくなるよね〜。」と言うので、「カスピアン王子の角笛」のDVDを一緒に見ました。うちの家族3人で見ている時とは違った、女の子らしい声やコメントがおかしいやら、かわいいやら、私もJも結構好き勝手なコメントを分かち合いつつ(?)、楽しい時間でした。

新年度の歩みも、それぞれに祝され、神様の恵みと宝をたくさんいただける一年となりますように…。

Tuesday, March 17, 2009

それぞれの一日

先週金曜夜〜土曜午前にかけての、Jの学校でのお泊まり会も無事に守られ、土曜のお昼すぎ、笑顔で家に戻ってきました。学期末恒例の「スクールショップ」で楽しくお買い物して、「これはママに」と写真立てとメモパッドを買ってきてくれました。ママも、金曜夜は父兄会で家に11時過ぎに帰る…という、滅多にないことをしたので、土曜、日曜とどうなることかと心配でしたが、皆さんのお祈りに支えられ、夜はこれ以上ないほど熟睡できたらしく、思ったより早くエネルギー充電でき、日曜の礼拝でのご奉仕や交わりも守られました。ありがとうございました。

jの学校の普通授業は先週の金曜で一応終わりでしたが、今週は「補講」で、主に日本語でやっている小学6年生の勉強を進めているようです。「補講」期間なので、学校は朝10時始まりで、下校時間もいつもよりはやや早め。「今週は10時始まり」という肝腎なことを聞き漏らしたJ、昨日は普通通りに登校したら、まだ誰も来てなくて、しばらくそのへんをぶらぶらして自分なりに時間をつぶして、みんなを待っていたら、そのうちに先生が来られ、だんだんにみんなも来て…だったそうです。今朝はちゃんと時間に合わせて出かけていったのに、10時10分頃に先生から電話。「J君、まだ来てないんですけど、大丈夫ですか?」なんと、今朝は人身事故で、登校途中に電車が17分くらい停止してしまったそうです。その後、無事に学校に到着したと電話があり、ほっとしました。ほんとに、こういう時は親は無力の極み。でも、毎朝必ず祈って出かけ(送り出し)ているので、Jのことはもちろん、私のことも、イエス様が守っていてくださるなぁと実感しました。「イエス様、いつもありがとうございます。これからもますます、Jのこと守ってください、私は守る力も知恵もありませんから…。」と、改めて祈らされました。

さて、Jは学校でしたが、昨日の月曜は、Kevinと私は、宣教団のミーティングがあってそれに参加しました。ほんとは9時半からだったのですが、私はJのお弁当を作り、送り出し、自分もご飯を食べ、ちょっと一息ついてからじゃないと、うちからその場所まで電車を乗り継ぎ、片道1時間20分くらいかかるしで大変なので、Kevinに先に出てもらって、後から遅れて行きました。

久しぶりに同労の宣教師の方々と会い、良い話し合いもできました。宣教師の集まりの時は、話し合いの内容は大体わかるけど、日本語での話し合いのように100%わかるわけじゃないし、とってもおとなし〜い私。でも、Kevinの心遣いなどもあって、最後、みんなそれぞれに、声を発する(?)ことができる時間が与えられ、私もなんとか、英語で自分が思っていることや感じていることなどを言いました。

でもいつも思うんだけれど、私がたまに発言すると、宣教団の他の先生達がみ〜んな、とっても優しい顔して、真剣に聴いて、その後に続く方は、私が言ったこと(話せたこと)を、私の言葉以上によく汲み取って(思っていることはあっても、表現力が伴わないので、ほんとにたいしたこと言えてないのですが)、それをフォローするようなことを言ってくださるので、とても嬉しくあたたかい気持ちになります。我が夫Kevinさまも、「かおりも言ってたけど…」と私の言ったことをさらにちゃんと説明し補ってくれました。

きっとこれって、先生達がそれぞれ、日本の社会で、教会の中で、自分達がいろんな思いや経験をしているがゆえに、逆の立場で、宣教団の中では私がそういうマイナーな立場、すべてを理解できずに、一生懸命なことをよくわかって受け入れ、支えてくださるんだろうなぁと思うのです。Kevinを見ていても、他の先生達を見ていても、本当に宣教師の働きっていうのは底知れず大変なものだなぁと思います。私は宣教団の中で別に何の責任もないけれど、先生達は「宣教師」として日本に来ているゆえに、「リーダー」として責任ある立場に立ち、その重責を担ってもいるんだし、その大変さは、私には計り知れないほど大きいんですよね。自分も同じ「宣教師」として日本にいるわけですが、日本人であり、この教会のグループの中で生まれ育った者として、宣教団の先生達やその働きの為に、何か支えとなれるような存在になれるといいな…、何より、もっともっと、先生達の為に祈らなくちゃいけないな…と思いました。

ミーティングは午前中で終わりだったので、KevinとP先生(ご主人)と一緒に近くのラーメン屋さんでお昼を食べました。MKのP先生は、私が小さい頃からの知り合いで、P先生のご両親は、私の母教会の働きにも関わり、英語を教えてくださったご夫妻。小さい頃からよく家にも寄って、両親とお茶を飲んで良い交わりをし、私達をかわいがってくださった先生です。今自分が大人になって、息子さんご夫妻(と言っても私よりずっと年上ですが)と一緒に、同じ宣教団で働くことができるなんて、本当に神様の恵みだなぁと感謝、感謝。お昼の交わりも楽しかったです♪

その後Kevinは、神学校のクラスのテストを受ける為、K先生に監督してもらって、そのままそこに残っていたので、私ひとりで帰りました。帰りは行きと違うルートで、都心まわりで帰ってきました。かなり長く電車に乗っていたけど、乗り換えが一度だけ、しかも同じ駅の構内だったので、電車の中ではずっと座っていられたし、結局時間は同じくらいで、値段もかえって安いような…?遠回りと言ったら遠回りだけど、乗り換えの度にたくさん歩き回るのも大変なので、こっちの方が楽でした。混む時間帯でなかったのもあったでしょうけれど。外には出ませんでしたが、電車の窓から久しぶりに車ルートとは違う都心の景色を眺めて、その間たっぷり音楽も聴いて、連日お出かけやミーティングが続いたけど、それができるエネルギーを与えてくださり、守ってくださった神様に感謝しました。

夕食でみんなそろって、「いやぁ〜、今日はそれぞれにいろんな所に行って、いろんなことをした一日だったけど、守られて良い一日になって良かったね〜♪」と神様に感謝、感謝でした。

Saturday, March 14, 2009

忙しい一日

昨日は、私にしては無茶苦茶忙しい一日でした。あ〜、疲れた。でも、神様の恵みと憐れみ、そして覚えて祈ってくれた祈りの友の祈りに支えられた一日でした。

まず朝。年1回の「腹部エコー」の検査の日でした。朝ご飯も、飲み物も摂ってはいけないので、ついうっかりお弁当を作っている間につまみ食いしたり、お水やコーヒーを飲んでしまいそうで、変に緊張〜(>_<) でも、「うっかりミス」から守られて、何も食べず、何も飲まずにちゃんと病院に行けました。エコーの検査は痛くもなんともないので、大変楽な検査ですが、あばら骨やわきに、あまり何度も検査の道具を当てられると、骨がぐりぐりして気持ち悪いわ、くすぐったいわで、それに耐えるのが前回は結構大変でした。でも今回の技師さんはあまりそういうこともなく、あっさりと終わって良かった♪。

ついでに注射もして帰ろうと思って、午前中の一番混む時間だから、時間かかるだろうなぁとは思ってましたが、まぁ、ひたすら待って、待って、待って…の1時間半。エコー、注射、会計で、たっぷり2時間かかって、ようやく家に戻り、11時半頃に朝ご飯でした。(検査が終わった段階で、持ち込みの紅茶と菓子パンを飲み食いしましたが)

午後はひたすら、日曜のKevinのメッセージの翻訳。今回はエゼキエル書の37章から。神様によって、ひからびた骨でいっぱいの谷間に連れていかれたエゼキエルに、神様が「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」と問われ、ひからびた骨に預言することを命令されます。さすが預言者エゼキエル。直ちに主の命令に従って、骨に向かって預言すると、その骨がつながり、筋がつき、筋肉がつき、皮膚でおおわれますが、まだ息はありませんでした。そこに主の息が注がれて生きたものとなる、いのちが与えられるという箇所からで、神様のみことばと、聖霊様の息によってのみ、私達は個人的にも、また教会としても生きるものとなるという内容のメッセージ。

お互いに、お互いの言葉の足りなさを配慮しつつ、原稿を書いたり、翻訳したりするようにしています。でも今回は、Kevinがさらに自分の英語の表現を単純化して、少しでも私が理解しやすい、訳しやすい言葉や表現に徹してくれたようで、夕方までに終えることができました。Kevin、ありがとね〜(^^) どうしても、自分のことばでこう表現したい、英語のもつすばらしさ、日本語のもつすばらしさを生かした表現をしたい!という思いやプライドがありますが、私達が二人三脚でメッセージのご奉仕をしてくる中で、そういうのを全部捨てて、より単純に、とにかく「ポイントや、神様から教えられたことがそのまま伝わればよい」というように、意識を変えることを教えられてきました。なんかその実がようやく見えてきたような感じがして、とても嬉しかったし、メッセージからもいろいろ教えられました。訳の善し悪しはともかく、神様にご栄光を帰し、ご栄光をあおぐことのできる奉仕ができますように…。

そして夕方。急いでJと二人で早めの夕飯を食べて、Jの学校へ。学校は来週いっぱいあって、20日から春休みになりますが、恒例の学期末父兄会がありました。そしてこども達は、昨夜は学校でお泊まり会。朝学校に行って、他のお子さん達はそのまま学校にいたのに、Jったら、なんとしても一度家に戻りたくて、いっぺん帰ってきたのです。Jらしい…。(-_-;)

寝袋、薄いブランケット、着替え、洗面道具、そして枕まで持っていきたいと、自分で準備させたら、旅行用の中型スーツケースに入れて「こうして持っていく」と。「こんな大きなスーツケース、ちゃんと持っていける?ママは非力で助けにならないよ。ダダもいないのに。」と言ったら、「大丈夫。Jがちゃんと持っていくから。」そしてちゃんと自分で持って、電車を乗り継ぎ、私と一緒に学校へ…。大きなスーツケースを引いて現れたJに、高校生のI君が、「あれ〜、J。これからアメリカに行くんだっけ?」とからかって、みんな大笑い。なんか、みんな兄弟のようにしている様子に、心が和むのを感じました。

父兄会では、3学期の学校の様子のスライドを見せてもらって、その後、先生方からのいろんな連絡事項、相談事項もあり、話し合いがありました。新学期から新しく入るお子さんのご両親も来られ、いろいろ積極的な意見とかかわりをしてくださって、とても良い父兄会でした。その後、英語と算数の先生と個人的にいろいろお話して、今後の授業の方針などもお聞きし、本当によく考え祈って教えてくださっている先生方に感謝でした。

そういうのが全部終わったのがもう10時20分!前の父兄会はKevinが行ってくれたのですが、今回は人と会う約束が午後にあって、時間が間に合わなかったので、私ががんばって出席しました。Jの祈り、教会の姉妹や学校の先生と子供達の祈り「Jのお母さんが元気に父兄会に来れますように」という祈りに支えられました。皆さん、ありがとうございました。

話し合いの後、満員電車に乗って帰るエネルギーあるかしら…と、心配だったのですが、以外にもそんなに電車が混んでなくて、座ることはできなかったけれど、一人音楽を聴きながら、電車の窓の夜景?を見て、なんだかいい時間でした。夜暗いところを一人で歩くのが、いまだに怖い私、駅までKevinに迎えに来てもらって、家に戻りました。もう11時になってました。

疲れたし、忙しいし、行動範囲の大きな一日となりましたが、守られて、良い時間も与えられ、祈られる恵みと神様の守りを感謝しました。今日の準備や、明日の礼拝の為にも、神様の力が注がれて、ちゃんと務めを果たせますようにお祈りください。

今朝、用事があって学校の先生から電話があり、Jは楽しくお泊まりして、これから学年末恒例の「ショップ」があるそうです。むかしZ教会でアワナクラブをやっていた時、「チケット」を作って、毎学期末、「アワナショップ」というのをしていましたが(Rちゃん、Sちゃん、なつかしいね〜♡)、それの学校バージョンらしいです。「おうちの方からの献品大歓迎」ということだったので、いろいろ100円ショップで買ったり、家にあるものを献品しました。楽しいショップをして、子供達がどんな買い物を家に持ち帰るのかな〜と、なんとなくわくわく楽しい気分です。その場にいられなくて残念だけど…。

Tuesday, March 10, 2009

<神の大切な宝物>

息子ジョエルが12歳の時、私達はグランド・キャニオンにハイキングに行きました。この峡谷は私が一番好きな場所であり、見る度に驚きに目をみはり、夢中になります。何度見ても飽きないところです。ハイキングの最後の日の夜に、私達は薫製のソーセージ、チーズ、クラッカーを食べながら、峡谷の最も眺めの良い場所に座って、沈みゆく太陽を見ていました。峡谷にかかった夕陽が見せる雄大な色彩の変化は、まるで目で見るフーガ音楽のようでした。

その時ジョエルが峡谷を指差しながら、体をこちらに向けて友人と私に言いました。「世界でこれほどまでに神の栄光を現しているところはないでしょう!」まさに私の胸に込み上げていた感情とびったりの表現をしてくれました。私は言いました。「あるのだよ、ジョエル。これよりももっと神の栄光をよく現すものが。」ジョエルは反論したそうにしながら目を見開きました。「どこなの、お父さん。」私は息子を指差して「ここだよ。おまえだよ。」と言いました。「この峡谷全部でも、おまえとは比べ物にならないんだ。どんな峡谷、川、山、海でも、おまえや他の人間より神の威厳をもっと現しているものはないのだよ。」

友よ。あなたはあの壮大なグランド・キャニオンよりももっと壮大なのです。あなたは神の御手で造られ、イエス・キリストを除いて、神の最も大きな喜びと恵みの存在なのです。このように自分自身を見ることが、あなたを造られた神に対して謙虚になる方法です。鏡を見ながら大声で言ってみましょう。「私を大切なものとして素晴らしく造ってくださった神を賛美します。私は神のすてきな作品です。主よ!」

私は日々喜んで/ベン・ピーターソン

Thursday, March 5, 2009

調弦

昨日のレッスンの時、初めて自分で「調弦」をしました。

家で練習する時はいつも、チューナーがあるのでそれを使って調弦しています。そしてレッスンの時は、先生が調弦してくださって、それからレッスンが始まります(今までは)。

でも昨日は、「じゃ、バイオリンの調弦から始めましょうか。」と一言。「へ?今日は自分で調弦するの?!」一瞬ポケッとしてしまいました…(-_-;) そして怖々A線を弾いて調弦開始。

「自分で」と言っても、そんな簡単に調弦できるわけはなく、もちろん先生が「もっと高く」とか「ちょっと低めですね」とか声をかけてくださって、それに合わせてバイオリンを弾きながら、左手でベグを回して音の調整をするんですが、それがまた難しいんですよね。それに、2つの弦を一緒に弾いて和音にするのも、なかなかうまく和音にならなかったり、きれいな音が出なければ調弦できません。同じ五度の和音も、ピアノの五度と弦の五度は違います。合った時には「お!」と思うけれど、その瞬間を逃してしまうと大混乱〜!うまくペグやE線のアジャスターが回ってくれなかったり、レッスン前から大汗かいてしまいました。

それに、レッスンの部屋においてあるピアノはA=442で調律してあって、うちではA=440で合わせていたので、自分が慣れている音よりも高いため、なおさら「あれ???」という感じでしたが、やっぱり自分でやってみると勉強になるなぁと痛感しました。前から、レッスンに行くと「?」と思っていたんだけれど(ピアノが440で調律されていると信じ込んでいたので)、その原因もわかってすっきりしました。(…って、このへんがいい加減で、ちゃんと音を追求しない私よね。。。と苦笑いですが。)

昔から、耳のいい弟や親友に対し、あまり耳の鋭くない私はいつもひけめを感じていました。その劣等感?がまたムクムクッと出てきて、「ピアノの響きと弦の響きって違うし、難しいですね…。」と弱腰の私に、先生の元気な一言。「そうですね。でも大丈夫!慣れですよ、慣れ。だんだんわかって感じるようになりますから!」

いつもながら先生の元気な一言に励まされ、音階練習も課題の曲もちゃんとできて◎!ようやく次に進むことができました♪

今日の練習の時は、初めからチューナーに頼るのでなく、AとD、DとG、AとEの五度の和音を弾いて、その響きを聴いて、(チューナーの助けも借りながら)調弦してみました。先生に言われたように、ちょっとペグを緩めて、音の合わないところから、ペグを調節して五度の響きを探して…。「お?」と思って、そのままチューナーでも合わせてみたら、合ってました!前の先生にも言われたし、実際そう思うけど、五度の和音で合った時って、ピタッと合った何かを感じるんですよね。嬉しかったなぁ。

だんだん慣れていって、だんだんわかっていって…というプロセスは、時にうんざりしたり、さっさとわかるようになりたい!って焦ったり、嫌になったりしやすいものです。でもやっぱり「継続は力なり」だし、慣れていくプロセスって大事ですね。そして何かを見つけ、聴き取り、感じるプロセスの中で「喜び」を見いだした時の嬉しさが、「続ける力」になるんだなぁと思います。調子いい時、悪い時もありますが、「だんだん」というプロセスと、その中でこそ得られる喜びを大切に、これからも楽しくがんばろ〜!と思いました。

老人ホーム訪問


Jの学校の先生と子供達が、学校の近くの老人ホームを訪問する、というイベントがありました。「父兄の参加も歓迎」ということでしたが、残念ながら時間と体力の都合がつかず、私は行くことができませんでした。子供達の賛美、日本の歌のご披露の他、Aちゃんのバイオリン演奏もあったそうです。

この2つの絵は、Jの作品(?)です。歌った歌の歌詞に合わせて、そのイメージを絵にしたのだとか。ちょ〜っと笑いをさそうという意図もあったようですが、Jがササッと描いて、お友達も一緒に色を塗ってくれたそうな。前日に、「Jが歌に合わせて絵を描いたんだよ。」と聞いたので、「じゃあ、訪問が終わったら、その絵を家に持ち帰ってママに見せてよ。」と頼んでおいたら、ちゃんと持って帰ってきてくれました。大体話や様子は聞いていたけど、思わずふきだしてしまいました。でも上手〜。親ばかなママはすっかり感心してしまい、ぜひ皆さんにもお見せしたくて、ブログにアップしたわけです。

老人ホーム、最初行ってみたら2人だけで、Jは「あれ?2人だけ?」とちょっとガクッとしたそうです。でも歌っている間に、6人になり、人数が増えてきて、20人くらいになって、大にぎわいだったようです。ホームの職員さんが、「いつもはね、歌っている途中に部屋に帰ってしまうおじいちゃん、おばあちゃんもいるんですよ。でも今日は、みんな最後まで部屋に帰らず、喜んで聞いていたみたいです。良かった。」と言ってくださったそうで、Jもとても嬉しそうでした。

最後、おじいちゃん、おばあちゃん達と握手をしたら、あるおばあちゃんがJの手をなかなか離してくれなくて、ちょっと困っちゃった…とも言ってました。でも、ママはそれを聞いて、そのおばあちゃんがJ達が訪問したことを、どんなに嬉しく思い、楽しいひとときを過ごしたのかな、もしかして、自分の子供の小さい頃や、孫、ひ孫のことを思い出していたのかもしれない…と思って、目頭が熱くなってしまったのでした。イエス様の愛を、こうしていろんな人と分かち合うことができて、Jにも学校の子供達にもすばらしい恵みの時となったことでしょう。

PS:音楽はブログにアップできないけど、絵や何かの作品は写真でブログに載せられるので、これからもアップしていこうかな〜と、新しく「ギャラリー」というカテゴリーを作りました。うちのJ画伯の作品や、時にはKevinの作ったもの、私の作ったものなんかをご紹介していきたいと思います。乞うご期待〜(?)(^-^)ノ

Friday, February 27, 2009

<約束の箱>

説教者として名声を轟かせたドナルド・グレイ・バーンハウス博士は、学生時代フランスに住んでいました。彼の家の夕食には、小さな約束の箱というものが、いつも置かれていました。その中には、聖書から引き抜いた200余りの約束のみことばが入っていました。彼の家族は、特別な慰めが必要な時、その中から1つを選んで読みました。バーンハウスが福音を伝えたフランスの少女がいました。その少女はバーンハウスの家によく遊びに来て、バーンハウスの家族が箱の中から聖書のみことばを引いて読む姿を見て、自分も約束の箱を作りました。

時が流れ、大人の女性に成長したその少女は、世界大戦の中で窮地に追い込まれました。食べる物と言えばじゃがいもの皮が唯一で、子供達は骨だけの状態でした。絶望に陥った女性は、自分が作った約束の箱を見つめてこう言いました。「ああ、主よ。私達を助けてください。この箱の中に本当に私達の為の約束が入っているのでしょうか。」

手を伸ばして箱を掴もうとした女性は、涙で前が見えず、そのまま箱をひっくり返してしまいました。約束のみことばが周りにどさっとこぼれ落ちました。彼女の膝の上にも、地面にも、あたり一面みことばで埋め尽くされました。まさにその瞬間に、女性は1つの重要な事実に気がつきました。箱の中のみことばで、彼女が引いた1つのみことばだけではなく、神のすべての約束が自分に有効であるということです。その後、女性は言葉に表せない喜びと力を得て、絶望的な瞬間にも、神の約束にしっかりと信頼することができました。

生命力あるクリスチャンの人生/デイビッド・ジェレマイヤー


*一節の黙想:マルコの福音書16:2-3*
教会の使命、すなわち全世界に福音を伝えるということには、大きな問題が伴います。それはどれ1つとっても簡単なことではありません。人間的な頑なさ、病気、危険、孤独、罪、欲、教会の争いと堕落といった現実を前に、少数の宣教師達に何ができるのかと思えます。しかし私達は、復活の聖日の女性達のように、イエスへの愛と感謝の気持ちで進み行き、大きな障害物を神にゆだねなければなりません。
ーグラント・オズボーン/聖書注釈家

さむ〜い一日☃

今日は寒い!

首都圏では、この冬一番の寒さだとか。で、なんと一時雪が降りました☃もちろん積もるほどではなく、あっと言う間に、また雨に変わりましたが、久々の雪は、北国育ちの私にはなんとなくなつかしい風景でした。

午後になって、いつもの注射で病院に行きました。教会のHさんから7年くらい前にいただいた、とってもあったかいコートを来て(「今年の冬は、もう着なくていいかも…。」と思っていたけど)、茶色のクマさんのようになって、ほくほくと歩いていきました。

病院の中も、玄関のドアの開閉でさむいさむい…。

注射が終わって、会計の順番を待っていた時、その寒さを吹き飛ばすような一言が聞こえてきました。

「孫が、車で迎えに来てくれるんだ!」と、どこかのおじいちゃんの声。

嬉しくて、誇らしげで、はちきれんばかりの笑顔と、幸せそうな一声に、なんだか心の中がぽっとあたたかくなりました。「そりゃあ嬉しいよね、おじいちゃん!いいお孫さんですね!」と、話しかけたかったけど、それはしないで、心の中で言いました。ず〜っと前に亡くなったじいちゃんが、よく私達孫の自慢をして嬉しそうにしていた顔を、ふと思い出してなつかしくなりました。

寒い一日の中の、暖炉のようなひとときでした。

Monday, February 23, 2009

成長期

昨日の夜ご飯の時のこと。

日曜の夕食は、教会の後なので、たいていどっぷり疲れ果て、夕食の準備は簡単なものにするか、または何か注文したり、おかずを買ってきたり…という感じで済ませることが多いです。または、土曜日に余裕があれば、カレーとか、シチューとか、次の日も食べられるものを多めに作っておくとか。あ、そうそう、教会のお昼がカレーライスの時は、教会の熟練主婦の皆さんの作ったおいしいカレーの残りを、いつも「はい、これ、かおりさん達の夕食ね!」と、持たせてくださるので、それをまた食べたり、ほんとに、みんなに心にかけていただいて、助かってます。

で、昨日の教会のお昼は、教会で準備するお昼でなく、「お弁当」で、自分で準備する昼食でした。それぞれに、お弁当を作って持ってきたり、そばのコンビニで買ったりして、わいわいと食べています。うちは、もちろんコンビニご飯(情けないけど、土曜日フル稼働で礼拝の準備をし、日曜の朝に3人分の弁当を作り、その上また礼拝でフルで奉仕するエネルギーなど、私にはございません(-_-;)。その時、夕食のおかずになるようなものも買って、家に持ち帰りました。

大好きな中華サラダに、スパゲティーサラダを買って、タンパク質は、生協の「ミートボール」のパックをあたため、豆サラダと、自分で作った豆腐と大根のお味噌汁。

ミートボールは、ほんとに一口サイズの小さいもの。2袋開けて、計16個でした。で、3人で分けたわけですが、KevinとJは5個ずつ。私は3つで、みそ汁に、豆腐をいっぱい入れました。あとの3つは、月曜日のJのお弁当のおかずにしようと思って、そのまま台所のカウンターに残しておいたのです。

お祈りして、「いただきま〜す」と食べ始めたら、Jが、ご飯にかけるふりかけを取りに、キッチンに行きました。そして戻ってきたら一言。「ママ、キッチンにまだ、ミートボールが3つ残っていたけど、食べてもいい?」と、フォークに、ミートボールを一個刺して、持ってきました。

「え?食べるのはいいけど、5個じゃ足りないの?」

「だって、ミートボール、小さいよ。もっと食べたい。」

「じゃあ、いいよ。全部食べてしまえ。」

と、キッチンのカウンターに、明日のお弁当用に残しておいたミートボールも持ってきて、Jにあげました。

いくら小さいとは言え、最初の5個+弁当分の3個のミートボール、みそ汁、ご飯、2種類のサラダもペロっと食べて、満足した様子。はぁ〜、よく食べたねぇ…。

それを見ていて、つくづく、「まだまだ小さいと思っていたけど、Jもほんとに成長期に入ってきたんだなぁ…。」と実感したママでした。今年は13歳になるし、いよいよティーンエイジャーだものね。毎朝、寝癖で爆発している(?)髪の毛を、私がくしで整えてあげるのですが、最近、毎週月曜の朝になると、「あれ?なんか、先週より頭の位置が、心持ち高いみたい。」と思うようになりました。まだ私の方が背は高いけど、そのうち、昔弟に背を抜かされたことの再現の日が、間近に迫ってきているんだろうなぁ。。。と、カウントダウンしている感じです。


「成長」と言えば、今日は、Sちゃん(男の子)の19歳の誕生日。生後2ヶ月ちょっとから、Sちゃんのお母さんが働いている間、うちの母が、うちでベビーシッターをしました。ちょうど私はTCCを卒業して、母教会のスタッフとして働き始め、家で両親と一緒にいたので、赤ちゃんのSちゃんを、母と一緒にお世話しました。おむつを替えたり、ミルク、離乳食をあげたり、一緒に遊んだり、Sちゃんも私をとっても好きになってくれて、私と一緒に、どこにでも行き、ほんとにほんとにかわいくて、楽しくて、Sちゃんとその時の思い出は、私の宝物です。

Kevinと結婚して、アメリカに行く時、パパ、ママ、弟と離れることも悲しかったけど、それ以上に辛かったのが、Sちゃんと離れることでした。アメリカに行く日の朝、新幹線に乗って出かける私を、満面の笑顔で、見送ってくれたSちゃんの顔、今も忘れられません。アメリカに行ってから、外で遊んでいる時に、空に飛行機が飛んでいるのを見ると、「お〜い、かおりちゃ〜ん、Kevin兄ちゃ〜ん!」と、大声で叫んで、手を降ってくれていたそう。小さいSちゃんからもらった手紙や、プレゼント、写真は、大事に聖書の中にはさんでいます。

とっくの昔に、私の背を追い越し、今は、私をおんぶできるくらいのたくましい男の子になったSちゃん。でも中身はあの時のまま、実家に戻るたび、必ずうちに会いに来てくれて、Jのこともかわいがってくれます。Sちゃんも、弟のKも、イエス様を信じることができますように、お父さん、お母さんも、みんなで神様の家族になれますように…ずっと祈り続けているこの祈り。神様がいつかなえてくださるのかなぁって、とっても楽しみです。

2月は、20日がキキの誕生日。23日がSちゃん、25日がSちゃんの弟K、そして27日は、アメリカで2年以上、生後5ヶ月から2歳までベビーシッターしたSの誕生日。しかも、キキと、KとSの2人と1匹は、同じ年生まれなのです。Kは、私が結婚してから生まれたので、赤ちゃんの時はお世話できなかったけど、SちゃんとSをベビーシッターしたことは、後に、アメリカで出産、育児をする私に、いろんな備えをさせる為、イエス様が与えてくださった恵みでした。そうでなかったら、Jを育てることは、ほんとに大変だっただろうけど、おかげさまで、成長の道筋が見えていたので、いろんな時、悩みつつも、祈りながら、どこかのんびりと安心して、赤ちゃんのJを育てることができたなって思います。

Sちゃん、お誕生日おめでとう!K、Sも、お誕生日おめでとう!生まれてきてくれてありがとう!イエス様、みんなのいのちをありがとう!イエス様を信じる信仰へと、この大事な子供達を、必ず導いてください。。。Jも甥、姪も、教会の子供達も、ベビーシッターをしたり、ピアノを教えたりしてきた子供達も、Jのお友達も、その家族も、みんなみんな、イエス様によって、神様の家族になれますように。。。

Friday, February 20, 2009

キキの誕生日

今日は、キキの15歳の誕生日です。夕飯の時、キキを囲んで、みんなで「Happy Birthday」を歌ってあげました(^^)♪

ねこの15歳は、正確に、人間の何歳くらいなんでしょうね。85歳とか、90歳とか…?キキの生活って、ねことしては波瀾万丈の日々だにゃあ。。。

生後2ヶ月で、ペットショップで売られていたキキ。「ねこを買いに行こう」と、Kevinに連れられて行ったペットショップで、まだ2ヶ月だったキキに会いました。ほんとは茶トラのオスが欲しいと思って行ったのに、キキを見た途端に「この子だ!」と決定。いろいろ準備があって、次の日に、会社の帰りにKevinがペットショップでキキを引き取り、家に連れて帰ってきたのでした。Jが生まれる2年前のことでした。

その後、Jが生まれ、宣教師になって日本に来る為に、アメリカ中を旅行しての「サポート・ディスカバリー」が始まって、キキはお留守番ばっかりさせられ、その後はなんと、飛行機に乗って、キキも日本へ。日本に来てからも、2年に1回は私達がアメリカに戻るので、その間、いつもお留守番(良いご近所の方々に恵まれて、ほんとに感謝です)。引っ越しも4回。1993年6月〜1994年3月まで一時帰国の時は、Iさんご夫妻がキキと一緒に住んでくれて、留守中の家守をしてくださり、去年4月〜8月に一時帰国の時は、私の両親のもとでお世話になって…。なんだかほんとに、「キキ、苦労かけるねぇ。」という感じですが、その時々にお世話してくださった皆さん、近所、教会の皆さんに、ほんとにお世話になったし、かわいがってもらったし、愛をたくさん受けられて、感謝だなぁ〜って思います。

最近、「キキも年取ったなぁ。。。」と思うことが多いけれど、ずっと元気に楽しく過ごせるといいね…、イエス様、キキを守ってください、と祈らされます。人間と同じで、年とって、なおさら甘えん坊になったようなキキ。甘えたくなると、私やKevinに「抱っこ〜」と寄ってきて、ごろごろと喉を鳴らして喜んで、安心している様子は、「私も、イエス様にこうやって抱っこしてもらおう」という思いにさせてくれるし、「メリーさんの羊」のごとく、私やKevinの後をついて来るキキを見ると、「良い牧者なるイエス様にぴったりくっついていること」を思い出させてくれるし、キキの存在は本当に、我が家の宝物です!

Thursday, February 19, 2009

臨機応変と切り替え

昨日は、バイオリンのレッスンでした。最近、音階練習もみっちりするようになってきたし、曲も、1〜2ページの長いものになり、先生も私も、ついつい熱が入って、30分レッスンのはずが、気がついたら45分弱のレッスンになってしまい、私の後の人にご迷惑をかけてしまいました…。「すみませ〜ん」と受付の人にあやまったら、「いえいえ、そんなに熱を入れて夢中になれるレッスンというのは、すばらしいことです。」な〜んて言っていただけて、ほっとしましたf(^_^;)


ところで、最近の課題は「バイオリンの弦をおさえる時、ピアノの鍵盤を弾くかのごとく、指板の上で、指をパタパタしないこと。」


忍耐強く、

「指はそんなにあげなくていいんですよ。」

「ほら、こういうふうに弦を押さえると、無駄な動きもなく、定位置で音も取りやすいし、見た目もきれいでしょう?」

「指板の上を這うごとくですよ〜。」

と、繰り返し、繰り返し教え、声をかけてくださる先生。


私がずっとピアノを弾いているを知っているので、「まぁ、何にでも、長年培って体が覚えてしまうやり方ってありますからね〜。すぐに切り替えようとしても無理ですよ。少しずつ、意識をして、バイオリン用の指を覚えていくようにしましょうね。」と、若いのになんてすばらしい!と感心するばかりです。そして、その言葉に教えられ、励まされて、すこ〜しずつですが、意識を切り替え、気をつけることができるようになってきました。

先生といろいろ話していた時、学生時代はパイプオルガンも弾いたという話になり、ピアノとパイプも、おなじ鍵盤楽器とは言え、弾き方がぜんぜん違うんですよね〜、なんて言ったら、「じゃあ、バイオリンもオルガンだと思ったら?」と、先生からのアドバイス。すっごくわかりやすいアドバイスではあったのですが、私の情けない答えは、「そういえば、オルガンの先生に『あなた、ピアノ弾くみたいにオルガン弾いているわよ。オルガンはピアノと違うのよ。』って、よく言われました…。」

先生曰く、バイオリン弾きの先生は、私の場合と反対で、「鍵盤をたたく、打つ」という指の動きが怖くてできないそうです。だから、先生は、ピアノを弾く人を尊敬せずにいられないんだとか。

それぞれの楽器で、それぞれの特徴があり、それを体で覚えて、その楽器に一番ふさわしい方法で演奏していくこと…。難しくもあり、チャレンジでもあり、そしておもしろく、醍醐味を感じられるところです。

それにしても、「臨機応変」と「頭と心の切り替え」
ありとあらゆる面で適用される、神様からの訓練だわ…(-_-;)と、応用問題が大の苦手で、「臨機応変」も「切り替え」も、不得意きわまりない自分を、改めて知る機会となっています。生きている限り、ほんとにいろんなことを学ばされますね。だからこそ、生きてるのっておもしろいんでしょうけれど。

でも、どんな時にも優しく、ほほえんでそばにいてくださるイエス様を思うと、嬉しくなります。こうして遅々とした歩みであっても、その時々に、何かを感じ、学ぶことができるように導き続けてくださるイエス様。そして私が何かを感じた時、気づいた時、学んだ時に、「そうだよ!」「すごいね!」って、私の驚き、感動、喜びを共有してくださるイエス様。最近感じていることをいろいろ書きましたが、結局言いたかったことは、「イエス様にこんなに愛されて嬉しい!」っていうことに尽きます(*^_^*)

Tuesday, February 17, 2009

<あなたのつぼを割りなさい>

何人かが集まり、切なる心で祈りをささげ、神の臨在を深く感じます。しかし、祈りを終えた後、わずか10分もたたないうちに、神の臨在の恵みがどこかに消え去ってしまいます。あなたはこのような経験をしたことがないでしょうか。

神の臨在を感じたにもかかわらず、人格的に体験することができない理由は、神の臨在を引き寄せる香りが、あなたから出ている香りではないからです。あなたは、他の人が発散した砕かれた心の香りを、横からつまんで楽しんだのです。

マリヤがイエスに対し、痛んだ心でつぼを割ったその夜、彼女は変わらずイエスと同じ香りを感じることができました。彼女が眠りについた時も、次の日の朝起きた時も、イエスと同じ香りを感じることができました。あなたもこのような体験を望んでいますか。神に出会い、その出会いの力を常に感じたいと思っているでしょうか。

あなたのつぼを割ってください。マリヤは目の前におられるイエスの為に、自分の未来を犠牲にしました。あなたは神の臨在体験にたっぷり浸る為に、神に何をささげますか。今、つぼを割らなければなりません。心の扉を開いて、ただ主にだけ出会うことを期待し、すがりつかなければなりません。

もし、あなたが何の犠牲も払わなければ、あなたは決して砕かれた、悔いた心を持つことはできません。あなたが何の犠牲も払わず、無味乾燥な礼拝をささげるならば、恵みは瞬間的に終わってしまいます。しかし、すべてのものをささげ、情熱をもって礼拝をささげるならば、神の恵みはあなたにとどまり続けるのです。

切に求める信仰/トミー・テニー


*1節の黙想:マルコ14:6*
神を純粋に愛することは、霊的な、聖なることを通してだけ確認できるのではありません。むしろ単純で平凡な日常の中で、私達は、神と愛の関係に浸っているということを証明できるのです。あなたは、ベタニヤのマリヤのように、神の働きを適切な時に、示された通りになし遂げたことがありますか。私達が神を本当に愛するのであれば、神は私達の中で、価値のあることを行なわれるでしょう。
ーオズワルド・チェンバース

Sunday, February 15, 2009

バレンタインデー

先週の土曜日は、バレンタインデーでした。日本では「女の子が男の子にチョコレートをあげて、告白する」っていう日になっていますが、和洋折衷の我が家では、アメリカ式のバレンタインデーでした。KevinとJの二人から、「ママ、大好き〜♡」という、ウルウルもののカードをもらい、私が、二人からチョコレートまでもらっちゃいました。私の方では、Kevinにはカロリー半分のカフェオレのスティック一箱をあげて、二人の為にチョコレートケーキを作ってあげました。

そんな感じで、家でのバレンタインデーは、結局私が一番、いろいろとプレゼントをもらってしまいました…。ちょっと、「これでいいのか?」と思わないでもありませんでしたが、まぁ、あんまり深く考えないことにして。。。へへへ。

でも、KevinとJは、教会の人達からチョコレートたくさんもらってました。

「パパとお兄ちゃんに焼いてあげたホットケーキのおすそわけ」

「(土曜日は役員会だったので、その時の話)みんなで食べようと思って、おいしいプリン作ってきたの。さぁ、いっぱい食べて〜。」(ほんとにおいしかった…(^^)

「Kevin先生のダイエットの邪魔になると悪いから、Kevin先生には小さい箱にしました。Jはたくさん食べて大きくなってね。」

「Kevin先生は結婚してるから、Jだけにあげるね♪」

「Kevin先生の分は、かおりさんが調整してあげてくださいね。」

「Kevin様、J君、恵みの中で、HOP! STEP! JUMP!」

いろんなコメントやカードつきで、チョコレートにはしばらく困らないほど(?)、チョコレートと共に、たくさんの愛、祈り、励ましをいただきました。イエス様の愛と恵みをいつも以上に感じ、嬉しく感謝なバレンタインデーでした♡

今年のバレンタインデー。私は、本当に受けるばかりでしたが、いろいろ悩んだり、不安に思ったり、落ち込んだり、迷ったり、疲れたりしているさなかだったので、神様からの大きな励ましだったなぁと思います。大きなことをする力、エネルギー、時間はない私ですが、自分にできることを、自分にできる範囲で、自分に示されたことを実行し、イエス様の愛と恵みを、人々に分かち合っていける者にならせてください、と祈らされました。

Wednesday, February 11, 2009

ごはん

先々週、ちょっと体調が悪く、微熱→大汗→微熱→大汗が2−3日続いたことがありました。風邪の引きかけだったのかもしれませんし、なんだかよくわからなかったのですが、日頃から弱い私を心配して、教会のMさんが、おかずを届けてくれました。Mさんも、私と同じ、体の弱い姉妹なのに、こんなにしてくれるなんて…と、本当に嬉しく、感謝感激でした。Mさん、Tさん(ご主人)、ほんとにいつもありがとう〜。

Mさんが持ってきてくれたのは「鍋」でした。鶏肉、長いも、ネギなど、と〜ってもおいしかったし、心も体もあったまりました♡

そこで、ふっと、「あ、そういえば、今年は鍋料理してないなぁ。」と思いました。具合悪い時は、野菜いっぱい入れて、たくさんスープを作ったけれど、鍋もいいよね…と。最近、忙しかったり、疲れたりばかりで、買い物はほとんど生協の配達ですませ、自分でお店に買い物に行くこともご無沙汰していたので、食材が整わないということもあったのですが、何より、『鍋』料理の存在すら忘れていたのです。

「やっぱり、自分でお店に行って買い物するのも必要だし、いろんな意味で気晴らしにもなるよね〜」と思い、月曜の病院の帰り、近くの「ヨシダヤ」という小さな個人のスーパーで、ちょこっと買い物して帰ってきました。

そしてその夜。数日前からネットで見つけて「おいしそうだなぁ」と思っていた「豚バラ肉と白菜の鍋」を作ってみました。白菜を鍋の高さに切って、白菜を立てて鍋に入れます。白菜の間には、あらかじめ湯通ししてあるバラ肉をはさんでいきます。そして、水600ccを入れ、塩小さじ2を入れてフタをし、弱火で蒸し煮にします。レシピでは、人参をうすく輪切りにしたものも、豚肉と一緒に白菜の間にはさんでいましたが、私はどうしても春菊が食べたかったので、最後に春菊も入れました。あと、しめじを上にのせて煮ます。

鍋というと、ポン酢に大根おろしで食べたい私。レシピには書いてなかったけど、夕食直前に電話してきた母の勧めもあり、結局、私流に、大根おろしとポン酢で食べました。KevinにもJにも大好評でした!でもKevinは「野菜ばっかりじゃなくて、もうちょっと肉も欲しかった…。」と一言。この次は、もうちょっと肉の量を増やしてあげましょう。

そして昨日の夜。学校帰りにJの髪を切りに連れていき、「ついでにさ、サーティーワンでアイス食べて行きたい」と、6時にもなっているのに、そんなことを言うので、「え、もうご飯の時間だよ…」と思ったけれど、いつも我慢ばっかりしてるしな…と思いなおし、優しいママは(?)、「じゃあ、いいよ。」とつきあってあげました。そして満足したJに、帰り道、「今日の夜はさ、豚のバラ肉もあるし、お好み焼きにしようか」と言ったら、「おぉ〜、最近、ごはんすごいね!」と感激の様子。

「お好み焼きが、そんなにすごいのかぃ?」と思って「はぁ?」という顔をしていたらしい私に、「え、だって、めずらしいじゃない。」とJ。

確かに、うちではお好み焼きってあまりしたことありません。というのも、Jが幼稚園の頃に、お好み焼きをしたのに、KevinにもJにも不評だったからです。それを持ち出して「だって、Jがあんまり喜ばなかったんじゃない!」と言ったら、「だんだん変わってきたんだよ。」な〜んて、生意気なことを言ってました。近年、弟の所でお好み焼きをごちそうになった時は、「おいしい」と思ったらしいのです。

何であれ、今度は不評になることもなさそうだな…と思いながら、家に帰って、10分でお好み焼きの準備をし、ホットプレートで焼きました。ちょっと粉が少なめで、失敗したなぁと思ったけれど、おいしく出来上がり、みんな喜んで食べて良かったです。ついでに、月曜の鍋の残りに、ダシと醤油を入れてスープにして、一緒に食べました。味がしみて、とってもおいしかったです♪

Mさんの優しい鍋は、具合の悪かった時に大きな助けになっただけでなく、後にこうして、私に力とやる気を与え、おいしい夕食、家族の交わりが深められる刺激ともなりました。…なんて言うと、大げさかもしれませんが、「神様のみわざって、こうやって大きく広がっていくのかもなぁ…。一人の人が、1つのことを、まごころこめて、主の御名のもと、祈りつつ行なう時、神様のみわざがこうしてなされていき、他の人を生かすんだなぁ。」と思わされ、教えられた「鍋」料理でした。イエス様の愛と恵みに、しみじみ感謝です。。。

<聖書の判断に従う知恵>

私は聖書を研究しながら、このような経験をしました。聖書の解釈で別れ道に何度も立たされ、その度に、理性的で常識的な私の判断は、聖書の判断と大きく異なりました。この上なく愚かであった私は、聖書をさしおいて、自分の理性と常識が指示する方向へ進みました。しかし何度も逆戻りして、結局は、聖書が示す方向に進むしかありませんでした。

このような経験をしたことから、私は、今度自分の判断と聖書の判断が食い違った時は、自分の判断をきっぱりと放棄して、聖書の判断に従いたいと思います。なぜなら、私の判断はいつも、間違っていたからです。

理性主義者は、無限の知恵の教えを、自分自身の有限な判断によって批判しようと試みます。自分の理解できないことを、神は語られ行なわれる、理解できなくても、神にはそのようにする理由がある、ということを考えられないのです。

「神は私よりももっとよく知っておられるはずだ。私には理解できず、間違っているように思えても、神はいつも正しいはずだ。」との思いが、私を捕えたことがありました。その時が、私の人生で最も重要な発見をした瞬間でした。

みことばの霊を受ける方法/R.A.トーレイ

Tuesday, February 3, 2009

<追われるほど、召しに従え>

みことばを黙想しながら思うのは、神が私達に何かをさせられる時、なぜ、いつも忙しく、目が回るような時ばかりを選ばれるのか、ということです。お金も少しはあって余裕がある時には、献金についてあまり語られないのに、当面の生活も苦しい時に限って、献金しなさいと語られます。忙しくて倒れそうなのに、時間を作って奉仕しなさいと言われます。心に余裕がなくてトゲトゲしているのに、愛しなさいと言われます。もしかして神は、悪趣味なのではないか、とまで考えます。

しかし、もう一度考えてみると、神がそのようにされるには理由があるのです。最も大きな理由はこれです。私達が日々追われているが故に、追われながら絶望して、そのまま死ぬしかないが故に、神の働きをくださるのです。神が定められた日々を、虚しく生きることが罪であることは知っています。しかし、まず今、食べて生きていかなければならないという、目の前の現実に追われる中で、ただ必死に生きていくしかないのです。実に悲しく、やるせない現実です。

しかし、このように何かに追われる状況の中では、成熟や勝利は絶対にありえません。ですから神は、私達がこの悪循環から抜け出せるようにされるのです。

神は、私達を苦しめる為にではなく、私達を愛しておられるが故に、介入されるのです。今、食べて生きることにのみ、忙しい状態を続けていれば、死ぬまでそのようにして生きて、死ぬしかないのです。ですから、献身の決断を促し、介入されるのです。それは、全的に私達を愛しておられるからです。

神の命令が下った時、私達に必要なことは、理解と納得ではなく、従順と決断です。
ただそのまま決断し、従うだけです。

神の自信/ユ・ジンソ

<レイノルドの満足>

トーマス・コスティンは、著書「The Three Edward」の中で、14世紀にあったことについて話しています。

兄弟であるレイノルドとエドワードは、激しく戦いました。エドワードが先に攻撃を始め、レイノルドを捕えてニューコーク城に閉じ込めます。しかし、そこは牢屋ではなく、非常に安楽な空間でした。鍵もかかっていませんでした。エドワードはレイノルドに、牢屋から抜け出すことさえできるなら、彼が望んでいた地位と名誉をすべて返す、と約束します。

けれどもレイノルドは、牢屋から抜け出すことはできませんでした。その理由は、牢屋の門が他の門よりもせまく、レイノルドはとても太っていたからでした。彼が牢屋から出ることより、らくだが針の穴を通ることの方がずっと楽でした。彼が牢屋から抜け出すには、やせるしかありませんでした。それは、少しのパンと水だけしか与えられない囚人には、たやすいことでしたが、レイノルドには、とても大変なことでした。

エドワードはレイノルドに、毎日、脂っこくて刺激のある食べ物と、おまけに、甘く香りのいいエールビールとワインを差し入れました。それは、寛大さを装った虐待でした。レイノルドは食べてはまた食べ、さらに太っていきました。レイノルドは、門の開いている牢屋に10年間閉じ込められ、死んだ後にようやく出てくることができました。彼が、自分の国を取り戻す為にしなければならなかったことは、ひもじさに耐えることだったのです。

神の休息/マーク・ブキャナン

もう2月…受験真っ盛り

あっという間に、2月になりました。東北では、1月末に大雪で大変だったそうですが、皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。首都圏では、天気は良くても冷える日々が続いています。先週末は久々の大雨。日曜には晴れたので、みんな礼拝に来るのに支障がなく、感謝でした。

2月に入り、いよいよ受験シーズン真っ盛りですね。このへんは、「中学受験」をする子がとても多いので、Jと同年代のお子さん達、お母さん達は、受験ですごく大変そうです。うちのJは、人と違う道を、マイペースで地道にがんばっているので、「受験」の「じ」の字もありませんが、他の方達を見ていると、ほんとにみんな大変だなぁと思います。特に中学受験は、親が付き添い、親が書類を揃えたり、親がしてあげなくちゃいけないことがすごく多いそうで、私には、とってもできないなぁ〜と、お母さん達の一生懸命な姿に感心されられます。お友達のお子さんの受験のニュースを聞くたび、神様の守りと助けがあり、それぞれに、みこころにかなった学校へと導かれますようにと祈らされています。

Friday, January 23, 2009

2つの「おめでとう」

この前の日曜日、1月18日は、2つのお祝いをしました。

1つはKevinの誕生日♪日曜は何かと忙しいので、土曜の夜と月曜の夜、ちょっとでもゆっくりした気分になれるよう、土曜の夜は、Kevinの好きなスパゲティー、月曜の夜は、ミートローフにマッシュポテトなど、アメリカンな夕食にしてあげました。教会の皆さんも覚えていて、「Kevin先生、おめでとう〜」と、みんなでサインしたカードをくださいました。牧師の誕生日を、教会みんなで祝ってくれるって、ほんとに「家族」って感じがして嬉しいものです。皆さん、ありがとうございました。

2つ目は、同じ教会のグループに属している、O教会の献堂式。この教会には、弟家族が行っているし、私はTCCの4年生の時、1年間、奉仕神学生としてお世話になり、宣教師になって日本に来てからも、2年間、宣教師インターンとして、家族でお世話になりました。子供の頃からの友人も多く、私にとっては第2の母教会とも言える教会。その教会が、都心でビルの1フロアーを買い、自分達の所有する会堂を持つように、神様が導いてくださったのです。ずっと、様子を見て、いろいろ知っているがゆえに、とても感慨深く、感謝でした。弟達に会える、ということもオマケでしたが、なんとしても、お祝いの時に一緒に参加したいと、日曜の午後からで、体力が心配なところもありましたが、祈りつつ備え、教会の人にも祈って送り出していただきました。

献堂式の司式は、もちろん現在の牧師先生がされましたが、メッセージは、前任牧師のM先生。聖書のみことば、ここにいたるまでの経緯、そしてM先生のメッセージを聴きながら、つくづく思わされました。神様ご自身が、O教会にとって最善の時を待って、待って、ついに時至り、人知を超える大いなるみわざを、ものすごい速さでなしてくださったんだ…と。本当に感動でした。献堂式のプログラムの中で、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」というみことばを示され、神様のみわざを、人間的な思いで「遅い」と感じてはイライラし、自制を失い、待っていられずに勝手に動いてしまう愚かさと共に、いざ神様の時が来れば来たで、自分の思いや計画を超える「スピード」に不安を覚え、うろたえてしまったあげくに、自分の手順で何とか納得したいという思いが捨てられず、自分のペースにこだわってしまう不信仰を示されました。本当に、「信仰によって生きる」ということは、「常に神様のペースに自分を合わせて行く」ということでもあるんだなぁと、改めて思わされました。

M先生とは、たまに会うこともあり、いろいろわからないことがあると、時々メールをして教えていただいたり、ず〜っとお世話になっています。でも、奥さんと息子のK君には、6年くらい会っていませんでした。(と言うか、K君とは、生まれてから一度も会ったことがなかったのですが)K君に会ってみたいなぁ、奥さんにも会いたいなぁと思っていたので、K君には初めて、奥さんとは久しぶりにお会いでき、本当に嬉しかったです。しばらくぶりで、O教会の方々や、同労者の牧師先生達にもお会いでき、私にとって本当に嬉しい、祝された交わりの時も備えられ、感謝が100倍になりました。

その後は、弟のところに行って、今度は弟達が、Kevinのお誕生日のお祝いをしてくれました。「誕生日だから、シャツかセーターをプレゼントしたいと思っているんだけど、サイズ教えてくれる?」と、前日、私の携帯に内緒の電話が来て、アメリカンな「L. L. Bean」のお店に行って、シャツを買ってプレゼントしてくれました。Tちゃんは、ケーキも買ってくれて、Kevinも嬉しそうでした。去年の秋以来でしたが、Jは、いとこ達と楽しく遊び、私は姪のCちゃんをいっぱい抱っこして満足、弟達とも楽しい時間を過ごすことができて、とっても嬉しい「お祝い」の一日でした。

Monday, January 12, 2009

コッピーちゃん

皆さん、お寒うございます。シカゴや東北に比べれば、ずっとマイルドな東京の冬ですが、やっぱり寒いし、冷えること…。

今日は、コッピーちゃん(Jの魚)の水槽の温度が、17度くらいに下がっていました。これじゃ寒いんじゃないの〜?とコッピーちゃんに話しかけたら、本当に寒そうな様子。そこで、いつもは、水槽をリビングルームのテーブルの上に置いているのですが、電気カーペットの上に置いて、水温に注意しながら、様子を見ていました。

しばらくして、水温が20度になったら、すごく嬉しそうに、そして、あったまってエネルギーもたまったのか?元気そうに泳ぎ始めました。

アメリカに住んでいた頃は、Kevinが自分の水槽を持っていて、ネオンテトラとか、いろいろなお魚ちゃんが泳いでいました。でも、水槽の中にたくさん魚がいて、誰がどれなのか、どれが誰なのか、よくわからなかったし(?)、私は、時々エサをあげたり、水槽の掃除を手伝ったり、疲れるとぼぉ〜っと眺めたりして、癒されはしたものの、自分からは、あんまり魚に興味を持ったことってありませんでした。でも、このコッピーちゃんは、小さな小さな小さな水槽に、たった一匹なので、誰がどれか、迷うこともないし、しみじみ〜と観察していると、ほんとに、お魚ちゃんもおもしろいなぁと思わずにいられません。

寒い冬に、コッピーちゃんと、ちょっとほんわか、あったかい時間を共有しました。

Friday, January 9, 2009

猫の味覚?

ものすごく食欲旺盛な我が家の愛猫キキ。キキの食費?もばかにならないけど、変に安いものを食べさせると、体に合わないのか吐いてしまうし、何よりも、気に入らないものは食べない!なかなかグルメな猫なのです。それで、あちこち探しまわって、体に合ったもの、そして、味が単調にならないように、いろいろと交ぜたり、工夫して食べさせてます。

おかしかったこと。今度の2月で15歳になるキキは、猫としてはかなりご高齢?なので、何年か前から、「シニア用」フードを食べるようになりました。前は、12ヶ月までの子猫用、1-7歳までの成猫用、8歳以上のシニア用の3種類だったのですが、最近、さらに高齢猫の為、11歳以上が加わり、年齢別の種類が4種類になりました。そこでもちろん、15歳になるキキには、11歳〜の缶詰を買って食べさせてました。

ところが、味に飽きてしまったのか、全部食べずに残しては、みゃあみゃあ、もっとちょうだい〜と鳴き続けます。そんな折、Kevinがまちがって、8歳以上の缶詰を買ってきてしまい、「これじゃ栄養過多かなぁ」と思いながらも、それしかなかったし、8歳用のをあげました。そしたら!まぁ〜、食べること、食べること。お皿にあげた分、ペロっと食べ尽くしたのです。そして、いかにも満足そうに、コロッと横になって熟睡してしまいました。

「へぇ〜、やっぱり、猫用のご飯も、8歳用の方が味が濃くておいしいとか、11歳以上のは味がうすいとか、あるのかねぇ。。。」

「う〜ん、なにしろキキはグルメだからなぁ。。。」

その後は、11歳用、8歳用、缶詰、パックでもっとジューシーなものを組み合わせ、キキも満足して食べ、こちらもあちこちのお店で値段をチェックしながら、少しでも安く、キキの食べたいものを買えるように工夫し、家族で協力しあいながら、キキとの生活を楽しんでいます♡

Tuesday, January 6, 2009

アイススケート

昨日、冬休みのファミリー・イベントに、アイススケートに行きました。教会のRさんと子ども達も一緒に、7人で!KevinとJ、Y君、Rちゃんはスケートをして、Rさんは末っ子のRちゃんと公園内の公園で遊び、私は防寒対策ばっちりして、リンクの外のベンチに座って、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、それぞれに楽しく過ごしました。

クリスチャン・フレンドのMさんが、そのアイススケートリンクのある公園の年間パスを持っていて、子ども達と一緒にしょっちゅうスケートに行っている、ということを聞いていたので、ひょっとして会えるかも…と思っていたら、ホントに会えてびっくり!すごくスケートの上手なMさん親子。Jが感心していました。Rちゃんは、Mさんが一緒にすべってくれたのがとても嬉しかったらしく、Kevinもいろいろ教えてもらっていた様子。さっそうと美しく滑っていたMさん、時々リンクから降りて、ベンチに座っている私ともおしゃべりしてくれたり、とっても楽しいひとときでした。

今日は冬休み最終日。いよいよ明日から新学期です。算数の宿題は、難しすぎてわからない問題もあったので、学校が始まってから先生に教えてもらうそうですが、国語や漢字の宿題はちゃんとでき、ついでにクリスマスにあげた本も一冊読めた冬休み。ママの体調がすぐれず(クリスマス疲れもあるし、いろいろ忙しい年だったので)、本当に家の近辺に留まらせられていた休みだったけど、最後に楽しくスケートに行けて、本当に良かったです。

明日からの新学期も、イエス様、どうぞお守りください。お友達、いとこ達、はとこ達も、みんな、イエス様に守られて、安全に、元気に、すくすくと成長していけますように。イエス様を愛する信仰が強められていく年となりますように…。

Sunday, January 4, 2009

お友達

今日は、Jが前に通っていた学校のお友達、C君からJに電話が来ました。事情があって、途中から別の学校に転校して、しばらく音信不通になっていました。2年前の夏休みに、「うちに遊びに来て!」と誘ってくれて、一緒に遊んだのが、二人共よほど楽しかったらしく、「C君と遊べて、夢のように楽しかった!」と言っていたのに、その後すぐに転校してしまって、がっかりしていました。うちも、アメリカに戻ったり、学校が変わったりしている中、Jは時々C君をなつかしく思い出していたようです。

もしかして、住所が変わっているかも…と思いましたが、年賀状を出してみました。そうしたら、なんと、嬉しいことに今日の夕方、C君から電話が来ました!ほんの5分くらいだけど、シンプルに、お互いの近況報告をし、前の学校のお友達のことを話したり、嬉しそうなJ。見ている私も嬉しかった♡

それと、明日は教会のお友達と、アイススケートに行くことになり、嬉しさ倍増のJ。こちらの方は、Jより3つ下のY君と、妹達。お母さんが私と同年代。私とも仲良くしてくれて、子ども同士、ママ同士、教会での交わりも、個人的な交わりも楽しいN家。冬休みは、私の体調が良くなかったり、年末年始とは言え、日曜日はいつも通りで準備があり、結局どこにも出かけず、Jが家にいた、というだけだったので、冬休みの終わりに、教会の仲良しのお友達と、大好きなスケートに行けるのがとっても楽しみで、嬉しそうです。良かったね!イエス様、「仲良しの友達」をありがとう〜。

Friday, January 2, 2009

2009☆あけましておめでとう

皆様、明けましておめでとうございます。今年も、神様の愛と恵みをたくさんいただき、それぞれの必要が豊かに満たされて、イエス様と共に、平安と喜びの光の道を歩いていけますように、お祈りしています。

去年の元旦は、弟家族の教会の元旦礼拝に行って、弟達と一緒に礼拝をささげ、その後弟の家に行って、みんなと遊んできました。今年もできたらそうしたかったけれど、Kevinが仕事がわんさかあって、それだけなら、何とか時間を調整できたけれど、私があんまり調子良くなかったので、無理しないでおこうと思い、残念ながら行けませんでした。でも、1月18日(Kevinの誕生日!)に、弟達の教会の、新会堂の献堂式があるので、その時に行けるといいなぁ〜と思っています。

新年は、朝一番にイエス様と「コーヒータイム」をして、有意義なスタートでした。その後は、ひたすら日曜日の準備、メッセージを訳して過ごしました。体調が悪いのもあったけど、虫の居所も悪く、前日からお昼過ぎまでイライラ、カリカリして、みんなに当たり散らしてましたが(我ながら、みことばの恵みがさっぱり生きていないじゃないか!と思いつつ)、結局KevinとJに笑わされて、同時にイライラの火もようやく消えました。体調悪かったのも、夜には元気になったので、「ごめんね」の思いも込めて、アメリカ輸入のチョコレートケーキミックスで、チョコレートケーキを作り、夕飯の後、新年のお祝いにみんなで食べました。弟達に会えなかったのは本当に残念だったけど、まぁ、いいお正月だったかな。

今日も一生懸命メッセージの訳に励み、午後にようやく終わりました。たくさんみことばを引用し、みことばを読み、原稿に書いていて、なんだかとっても恵まれました。このメッセージ、新年最初だし、今年の年間聖句からのメッセージなので、特に重要なことを思うと、ほんとにひたすら祈りつつ…でした。足りないところ、人の言葉では言い尽くせないところ、また、英語から日本語への訳の限界、私自身の限界、いろいろ足りなさ、弱さがありますが、神様がきよめて、またみんなの心を整えてくださり、聖霊様が一人一人に語ってくださることを、真剣に祈らされます。

メッセージの後の応答の賛美には、聖歌の「見ゆるところによらずして」を選びました。年間聖句にあわせて、この賛美を、今年の教会のテーマソングにするっていうのはどう?と言ったら、Kevinが「それはいいアイディア!」と言ってくれました。「みことばは知性に働き、賛美の音楽は感性に働く」と、TCCの授業で学びましたが、イザヤ54:2と、「見ゆるところによらずして」を、教会の歩み、信仰の成長を導く為、主が用いてくださいますように…。

それにしても、神様の導きだと思いますが、年間聖句がイザヤ54:2と聞いた後から、私の頭の中で「見ゆるところによらずして」の賛美が、何度も何度も流れていたのです。こういうのって、クリスチャンホームで育った恵みの1つだなぁと思います。もちろん、私の場合、神学校に導かれ、教会音楽を学ぶ恵みもいただいたので、なおさら讃美歌、聖歌が深く入っているのでしょうけれど、それにしても、小さい時から、言葉も意味もよくわからずに歌っていた讃美歌、また、読み続けた聖書のみことば、日曜学校などで学んだことが、今の私の中で本当に生きているって感じるのです。必要な時に、神様が思い出させてくださること、私を教え導く為に用いてくださるのは、小さい頃から蓄えてきた、心にとめてきた、みことば、賛美、学び、思い、祈り…。「みことばの受肉」って、こういうことなのかなぁ〜なんて思っています。年を取るほどに、神様の恵みがどんどん大きくなって迫ってきて、感謝のことばがだんだん無くなっていくほどに、感謝の思いでいっぱいになります。Jも、甥、姪達も、教会のこども達も、こうして育って、大きくなった時に、神様への感謝の賛美があふれるようになっていくといいなぁ。。。

これも聖歌ですが「主と共に歩む、その楽しさよ〜♪」を味わって、今年も生きていきたいです。皆さんの歩みの為にも、お祈りしています!