Saturday, October 31, 2009

キキは神様のネコ♪

今年6月に、15歳でこの世のいのちを終え、祈りつつイエス様のもとに送った我が家の愛猫キキ。生きている時はもちろん、死ぬ時にも、キキの存在を通して、神様は私たち家族にたくさんの愛、恵み、祝福を注ぎ、神様ご自身とそのみわざのすばらしさを示してくださいました。秋になり、ようやくキキのいない生活に慣れてきました。…とは言っても、やっぱりキキが恋しい〜って思います。

そんな感じで過ごしていますが、2日ほど前、私たちを支援してくださっているアメリカの教会の方からメールが来ました。なんと、「今度の礼拝でキキのことをみんなに分かち合いたいので、キキの写真を送ってほしい」とのこと。

「へ?」と思ってそのメールを読み進んでみたら、その教会ではずっと、ペットを通して得た神様からの恵み、ペットを通しておしえられたこと、ペットを通して現された主の栄光の証を分かち合う、ということをしているのだそうです。そして、その教会のメンバーの方々が、次々にいろんな証をしてきたそうですが、なんと、11/1の礼拝の時の証の為、キキに白羽の矢があたった(?!)のでした。

6月末に、ケビンがメールでアメリカのサポーターの方々に祈祷課題を送った時、キキが死んだこと、またキキの存在を通して、どんなに私たちが神様から豊かな恵みを受けてきたのか、ということも書きました。その祈祷課題を読んで、そこの教会の方々がみんなで心を合わせて祈ってくださっていたのだと思います(この教会は、本当に私たち家族を覚え、いつもとてもよく祈り、ケアしてくださっています)。そして今回、キキのことを分かち合って、神様の恵みを教会の方々と共に賛美してくださるとのこと、ほんとう〜に嬉しく感謝だし、大感激です。

しみじみと、神様がいのちを与えてくださったものはみんな、神様のものなんだなぁと思いました。そして聖書に書いてあるとおり、信仰の人が、死んでなおその信仰によって語っているのはもちろんですが、神様は動物のいのちもすべて御手の中で大切にし、死んでからも、神様のご用の為に、うちのキキを用いてくださるなんて、なんてすごいことなんだろうと、神様への感謝、その愛の深さ、豊かさに感動しています。キキは、私たちの大事なネコであるだけでなく、神様がとても愛し、大事にかわいがってくださっているネコなんだね!と、嬉しい思いでいっぱいになりました。

<信仰の概念化を壊せ>

なぜ霊的感覚が崩れるのでしょうか。神を信じていると言いますが、実態である神には出会えず、神が「概念化」されているからです。礼拝と祈り、賛美を通して神と出会う体験がない為、常に神が概念化されていきます。概念は実態ではありません。たとえば、「犬」という概念があるとします。「あれが犬だ」と思えば、その瞬間、もはや犬を見ることはありません。すなわち、体験と観察を省略してしまうのです。ただ概念で把握してしまいます。しかし、実際に犬だと呼ばれる対象を観察してみてください。大きな犬、小さな犬、毛が多い犬、口が出た犬、耳が大きな犬など、数えきれないほど多くの対象が存在します。しかし、「犬」と概念化した瞬間、それ以上見ることをせず、「犬」というカテゴリーにすべて寄せ集めてしまうのです。

「神を概念によって知る」ということは、どういう意味でしょうか。「神はこういう方だ」と頭の中で整理した内容を、そのまま「神」として受け入れる行為です。一体それがどうやって神になれるのでしょうか。私たちがそのような概念の神と出会うなら、私たちには力もなく、喜びもありません。もちろん、神との出会いもありません。したがって、概念化された神ではなく、聖書に現れた神、その神とみことばを通して「出会わなければ」なりません。聖書を通して、直接神の息づかいを感じてください。祈りと賛美、説教を通して語られる神を感じてください。礼拝の中で神の臨在を感じてください。その出会いがまことのキリスト教なのです。それが、失われた感覚を回復した、生ける聖徒と教会の姿なのです。

「泣いてこそ生きる」/ジョン・ビョンウク

<今の時代のための贈り物、安息日>

私たちの人生において、神の足跡を、日常の全時間においても、神の御手の跡を発見できたら、私たちの人生は無限に豊かになるでしょう。これらすべてのことがわかるには時間が必要です。私たちは神を見つめる時間を持つ為に、何度か立ち止まることもあり、また立ち止まらなければなりません。また、私たちには短い瞬間以上の時間が必要です。

一日中完全に立ち止まることのできる安息日は、神の導きに目を向けられるように、私たちを訓練させます。安息日は、私たちに神秘的な方法で、経験を通じた恵みを悟らせてくれます。今の時代に必要なのは、何よりも恵みなのではないかと思います。私たちの人生が私たちから始まったものではなく、すべての愛が贈り物として私たちに与えられ、神の恵みが私たちを包み、満たしているという事実の中で、安息を味わわなければなりません。神の愛と恵みは、私たちにその資格があるからではなく、神のご性質のゆえに私たちに与えられます。

安息日は、私たちに神の御手の中で休むことによって、その愛と恵みを経験するよう求めます。安息日は、人生を破壊する世の中の要素から抜け出させてくれます。安息日は、魅力的なリズムと拍子を提供し、私たちが週に一日ずつ、マスメディアや競争、ストレスから抜け出せるよう助けてくれます。私たちの文化は、立ち止まらず、休まず、速いスピードで生きるように急かします。神は私たちにほほえみ、いのちを与える、もう少しゆっくりしたリズムへと招かれます。安息日は、私たちの時代の為の、神様からの贈り物なのです。

「喜んで安息する日」/リン・バーブ

Tuesday, October 27, 2009

ブレイブボード

知る人ぞ知る?今ひそかに話題の「ブレイブボード」。なんとうちのJも夢中になっています。この写真は、うまくバランスとって乗れるようになり、なんとUターンまでできるようになった時の記念写真。Uターンがよくわからないのは残念ですが…。(ちなみにこれは、家の前の私道ではありません。家の前にこんなに広い遊歩道があったらいいのになぁ)

ちょっと前まで、教会のMちゃんのお下がりにもらったローラーブレードで遊んでいましたが、足のサイズが合わなくなり、先日遊びに来たJのいとこ(私の甥)のKにあげました。そして「今度は足のサイズに関係なく遊べるものを」ということで、スケートボードに行くか?!という感じのところに、テレビのコマーシャルで「ブレイブボード」を見て、「Jはこれが欲しい!」と、一生懸命お小遣いをためていました。

ちょっと満額には足りませんでしたが、優しい(甘い?)Kevinお父さんが足りない分を出してくれて、そのうえ市場価格よりも安く買うことができて大喜び。さっそく家の前の私道で、ママにつかまってブレイブボードに乗るところから、練習開始。普通のスケボーは板に4つの車輪がついていますが、ブレイブボードは前後2個しか車輪がついていません。しかも足を乗せるところがクネクネと動くので、かなりなバランス感覚が必要です。母子で練習している姿を見かけたお向かいのHさんのおじちゃんに、「J君、車には気をつけるんだよ。こっちの道は車が来ないから、こっちで(家の前の私道)で練習するといいよ。がんばれ!」と励まされ、あっと言う間にちゃんとバランスとって乗れるようになりました。運動音痴のママとは大違い。

そして、Uターンもできるようになり、家の前をスイスイと乗って遊んでいます。今日も学校から戻ってから、ちょこっと乗って遊んでいました。「ママも見て。」と言うので、玄関先に腰をおろしてながめていました。ふと目をあげると、おむかいのHさんの隣りのYさんのおじいちゃんが、2階の窓からJの姿をしばらくながめていました。Yさんはきっと、Jを孫のような感じで見ていてくださったんでしょうね。ありがたいことです。

テレビで見るような、すごいスピードでジャンプするようなことはしませんが、スィ〜とブレイブボードに乗っている姿がなかなか良い感じ。それにしても大きくなったなぁと思うこの頃です。

Wednesday, October 21, 2009

<尊い時間の浪費>

この世の観点で見ると、神を礼拝することは時間の浪費です。これは明らかに尊い時間の浪費ですが、時間の浪費であることには違いありません。しかし、礼拝を実用的な観点で理解してはなりません。

私たちが礼拝するただ一つの理由は、神が礼拝を受けるにふさわしい方であるからです。礼拝は、まことに尊い時間の浪費です。礼拝は私たちを、宇宙の王である神の尊い輝きの中に引き込むからです。「輝きに浸かる」という言葉に込められたイメージが好きです。まるで暑い夏の日に、山にあるサファイヤ色の湖に飛び込むかのようです。これと同じように、礼拝も、神の崇高なご性質と好意に私たちを浸からせようとします。

しかし私たちは、礼拝を個人的な好みや時間、便利さや慰めの問題に変えようとする時代と文化の中に生きています。ですから、礼拝において可能な限り神と深く出会い、神を体験しなければなりません。そうすれば、社会的な怠慢と空想から目覚め、しっかりと神の輝きを仰ぎ見、拝し、敬い、奉仕と犠牲によって応えることができます。神を礼拝する時、私たちは力や成就や成功ではなく、隣人を愛することに時間を浪費するようになります。

礼拝は、クリスチャンとして歩む情熱を与え、さらに情熱的な礼拝へと導く尊い時間の浪費です。礼拝は、時代遅れで、非効率的で、非生産的で、時には私たち自身も満足できないかもしれません。それにもかかわらず、礼拝はこの世を変えることのできるただ一つの希望でもあるのです。

「尊い時間の『浪費』ー礼拝」/マルバ・ダン

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*一節の黙想:第2歴代誌1:6
ソロモンは礼拝に成功した王でした。彼はイスラエルの指導者たちと民を導き、神の前で1000頭のささげものをささげました。全焼のいけにえは傷のないものでなくてはならず、神が受け取られるように、きよくささげなければなりませんでした。1000頭のいけにえをささげる為に、礼拝者達はどれほど多くの労苦と努力を注いだことでしょうか。ソロモンは、心と思いとまことを尽くして神を愛しました。

キム・ヨンオク/韓国教会の牧師

<自己愛の虚像>

ジム・キャリー主演の映画『マスク』を見ると、緑色のマスクをつけた主人公が着たコートの中から、物を一つ一つ取り出すシーンがあります。それらはすべて、小さく役に立たないものばかりです。私たちも、そのような役に立たないものを守ろうと、それぞれマスクをつけて生きているのかもしれません。偉そうなふり、知ったかぶり、見栄をはりながら生きることに忙しくしています。しかし正直なところ、私たちの中には、あまり大したものはありません。ただ、今ある実力をそのまま見せながら歩めば良いのです。

主人であるイエスが、私のために死なれたことを知っている人は、二度と自分の為に生きたりしません。私の為に代わりに死んでくださった方の為に歩みます。それが、恩人に対する道理であり、感謝する人生です。イエスを信じると言いながらも、主人の為に歩まず、自分自身の為に奉仕し、自己実現の為にイエスの御名を勝手に使うことは、恩知らずです。しっかりと信じているふりをしますが、実は自分自身の為にイエスを信じているのです。イエスを信じていると言いながら、いつも傷ついたと言っている人は、まだ自我が生きている人です。主人の為に生きる人は、傷を受ける暇がありません。しもべは自分の為に生きるのではなく、主人の為に生きるのだからです。では今、あなたは誰の為に生きていますか。

「復活」/キム・ウングク

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*一節の黙想:ガラテヤ6:14
私たちはただイエス・キリストと十字架を誇らなければなりません。イエスを宣べ伝えればすばらしいことが起こります。私たちが自分の話をすれば、単なる人の言葉となって、何の価値も持たなくなります。しかし、私たちが神の真理を誇るならば、それを聞いた人の心に真理が残ります。私たちの霊的な力の源である十字架に焦点を合わせ、イエス・キリストを誇りましょう。

オズワルド・チェンバース/福音主義巡回伝道者

<互いに励まし合う>

私の息子が小学3年生の時、休みの宿題で木彫りのレリーフを作ったことがありました。息子はニスをしっかりと塗った板にイタリック体で、「おかあさん、愛しているよ!」と刻みました。もちろん、それはこの世で末永く記憶されるほどの名言ではありませんでしたが、そのメッセージが妻に与えた感動は、この世のどんな名言よりも強く持続的なものでした。

妻は、今でもそのレリーフを大切に保管しています。私は、妻が疲れた時や人々の非難や中傷によって心が傷ついた時、レリーフをのぞき込むのを何度も見ました。レリーフの文章が、今でも妻を癒す力を発揮しているのです。

さらにそのレリーフは、妻を癒す役割だけでなく、苦しむ人々を探し、彼らを訪ね、傷を癒すという使命を妻に与える役割もしています。苦しむ人々は決して遠くにいるのではありません。彼らは苦しんでいます。あなたの助けを求めています。苦しみを隠し、仮面をつけて、一日一日滅びへと向かっています。ですから、彼らを祝福しなければなりません。

私たちの目に見えない所で血を流している彼らを探し、訪ね、励ますとき、キリストが私たちを通して、彼らの傷に触れてくださることに気づかなければなりません。他の人々のたましいに関心を持つならば、私たちのたましいも豊かにされるでしょう。

「人を建て上げる最も大きな力、励まし」/カルビン・ミラー

<「私」から「私たち」へ>

アメリカのサンフランシスコ近郊にレッドウッドという森林公園があります。砂漠地帯にもかかわらず、公園にはうっそうとした赤松の木々が、天を突き刺すように高くそびえ、森を作っています。厳しい暑さと日照りのため、何も生存できないようなこの砂漠に、どのようにしてレッドウッド公園のような森ができたのでしょうか。

それは、いろいろな木々が一緒に育っているからだそうです。多くの木々が一緒に育つことによって、地面にはいつも影ができ、湿気の蒸発が抑えられて、木が枯れずに森が維持できるそうです。逆に、初めはうっそうとしていた密林の木々も、一株ずつどんどん切り取ると、次第に土地が干からび、残った木々も全部枯れて死んでしまいます。

自分を愛する人は共同体を愛します。なぜならば、共同体の中にいなければ自分自身が枯れて死んでしまうからです。共同体を愛するということ、それは簡単で当然のことのようですが、ややもするとこれほど難しく大変なことはありません。共同体を愛さなければならないことは知識として知ってはいますが、実践するには必然的に自己犠牲が伴うからです。

「信仰の質を高めるリーダーシップ」/キム・ビョンサム

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*一節の黙想:ガラテヤ4:12
私たちが信仰の単純さを捨て、さまざまな意識や慣習に心を奪われて、心の頼みとするなら、どれほど大きな損失になるでしょうか。ですから、外的なことに心を奪われて奴隷になるのではなく、パウロと同じように心の中にキリストを迎えましょう。キリストが私たちの内面から新しいいのちの力と情熱となってくださいます。私たちが聖霊の勧めに従うたびに、自我は小さくなり、キリストは大きくなるのです。

F.B.マイアー/イギリスの神学者

Saturday, October 10, 2009

<神の親密な愛>

キリスト教私立高校に通っていた一人の少年が、ある日偶然に、このような話を聞きました。
「あなたが神様の為にするすべてのことは、神との親密な関係からなされるものでなければなりません。」この言葉が少年の脳裏から離れませんでした。

深刻に思い悩んだ少年は、近くの川べりに行き、あれこれ思いめぐらしながら、川の水に石を投げました。「ポチャン、ポチャン」また石を投げようとしたところ、心の中でこのような声が聞こえました。「わたしも一緒にしてもいいかい?」少年は、もしかして神様の声じゃないかと思いましたが、そのままやり過ごしました。すると、その声は繰り返し聞こえてきました。少年は結局、石を投げるのをやめて、天を見上げながら話しました。「神様、私と一緒に石を投げて遊ぼうと言われるんですか?どうして、こんなくだらないことをしたいと言われるんですか?神様は、この世のもっと大きな問題に神経を使わないといけないんじゃないですか?」すると、再び声が聞こえてきました。「私はただ、あなたと一緒にいて、親しくなりたいだけだよ。」

まさにその日、15歳の少年だった私は、イエスが本当に私を深く愛しておられるということを悟りました。イエスは、私が休んでいる時や、一人で川に石を投げている時も、私を愛しておられます。イエスは何の条件も制限もなく、私を愛されます。

「美しい力の道、イエス」/ダン・バウマン

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*一節の黙想:第1ヨハネ4:7
私たちは愛する力がなく、他の人を愛してもすぐに底をついてしまうと考えます。しかし、決してそうではありません。水道管を見てください。それはただの空っぽの管にすぎません。しかし、水資源とつながる時、すさまじい水が供給されます。私たちは神の愛の通路であり、全てのものがそのお方から来ます。私たちが他の人を祝福し、愛することのできる力を主が供給してくださいます。私たちは、何もなくても愛することができます。私たち自身が主の愛の通路だからです。

キム・ソテク/韓国の牧師

Saturday, October 3, 2009

<エマオに帰る>

私と妻は「ファイナルフロンティア」という働きの指導者であり、大切な友だちでもあるアベニール・ボスキーと一緒に、イスラエルでの祈りのツアーに参加していました。アベニールは私たちがそこに滞在している間、一般の観光では行くことができない所へ連れて行ってくれました。そこは人々にあまり知られていない所でした。アベニールは私がルカ24章のみことばが好きなことはまったく知りませんでしたが、彼が案内してくれた場所には、「エマオへ続く道」がありました。2000年前にイエスが2人の弟子と一緒に歩かれた道を私たちが歩くとは、なんとすばらしい祝福でしょう!

しかし、その道を歩く喜びを味わうと同時に、重荷を感じました。その理由は、今日の「エマオへ続く道」は、人々の関心から遠ざかり、雑草が茂る丘になっていたからです。それは今日の私たち内側にあるエマオが再び回復されるべきであるということを教えてくれていました。主が私たちの内にあるエマオに再び戻って来られるようにです。心のエマオの道はイエスが私たちと共に歩まれ、みことばを分かち合い、心を開いてくださる道です。

エマオの道を歩きなたら、イエスと出会った2人の弟子の心がどれほど燃え上がったのか考えてみました。そして私は心を開いて、主の御前で泣きました。愛なる神、恵みにあふれる主は、私たちの心が2人の弟子のように熱くなるのを望まれます。その方は、私たちの心が主の御心と一つとなって飛び跳ねることを望まれます。


「主の臨在にとらえられ」/ジェームス・W・ゴール