Thursday, July 30, 2009

Happy Birthday, J!

今日は、うちのJ君のお誕生日。いよいよティーンエイジャーに。最近、急激に成長しているスピードに体が追いつかず、いろんな疲れもたまったのか、今週は風邪で熱を出してダウン。今日はだいぶ良くなって力もついてきたようですが、ささやかに、家族3人でしみじみ〜とお祝いしました♪

それにしても、Jの誕生日の為、教会のおばちゃん達からカードとお祝い、教会のお兄ちゃん、お姉ちゃん達からもプレゼント、カード、電話、メールでお祝い、両方のおじいちゃん、おばあちゃんからはもちろん、アメリカからも何通ものバースデーカードが届き、皆さんの心遣いや愛と祈りに、ただただびっくり。こんなふうに、たくさんの方々の愛と祈りの中で、イエス様を信じて生きることができるよう、祝福し導いてくださっている神様に、そしてたくさんの方々に、親として感謝の言葉もないほどです。ありがとうございます。

だんだん身長も私に近づいてきて、足のサイズは私のサイズよりも大きくなり、声変わりもし始めたJ。大人になったな〜と思う時、まだまだかわいいな〜と思う時、ずいぶん生意気なことを言い、痛い所をついてくるようになったなぁ〜と思う時、いろいろですが、神様がJをうちの子として生まれさせてくださり、一緒に家族として過ごせる今、いっぱい愛して、愛されて(時にはケンカもして、ちゃんと仲直りして)、私やKevinが神様からいただいたもの、またそれぞれの家族を通して培って、受け継いできたことをどんどん伝えていきたいな…と思っています。そして、神様を愛し、従い、喜んで仕える人になってほしい!私たちの祈りと願いはそれに尽きます。

Jに与えられている賜物は、これからどんなふうに磨かれ、神様の為に用いられていくのかな〜。ARTへの思いが強く、Jには一番の楽しみや喜びであり、自分なりに鍛錬を重ねているようですが(思い入れが強いほど、喜びや楽しみだけでなく、苦しみや葛藤も強く多いんですよね〜)、神様がこれからどう導いてくださるのか、楽しみに、期待しつつ祈っていこうと思っています。

Saturday, July 25, 2009

<信じれば助けてくださる!>

数年前に、親しい友人であるピーター・ドラッカーの家を訪問しました。ピーターは純粋なルネッサンスの人間であり、現代経営の父であり、20世紀の最も明晰な思想家の1人です。私はピーターに尋ねました。「どのようにイエス・キリストを自分の救い主として受け入れるようになったのですか。」彼は少し考えてから答えました。「ようやく恵みに気がついたあの日、この世にこれ以上利益のあるものはない、ということに気がついたのです。」

イエスが十字架で私たちの罪の代価を払われた時、信じない人々は取り囲んで、主をあざ笑いました。「お前が本当に神の子なら、十字架から降りて自分自身を救ってみろ!」もちろん、イエスは彼らを無視しました。イエスがこの地に来られた目的は、自分を救うことではなかったからです。イエスは、ご自分を救うために来られたのではありません。イエスは、あなたを救う為に来られたのです。

イエスに「はい」と答えることで、あなたが失うものは何でしょうか。罪責感、不安、目的のない人生、死への恐れ、絶望、心配、恥、そして神の導きなしに1人で背負って生きてきた多くの重荷も捨てることになります。このような申し出を拒む人がいるでしょうか。

しかし、神はあなたに選択権を与えられました。あなたは神と離れ、自己中心的な人生を歩み続けることもできます。あるいは、自分の道から心と向きを変えてイエスに従うこともできます。このUターンを「悔い改め」といいます。すべての罪の赦しを求め、神の御子イエスが、あなたの為にしてくださったみわざを信頼してください。

「イエスに出会いたい」/リック・ウォーレン

Thursday, July 23, 2009

キキ

キキをイエス様のもとに送って、今日でひと月がたちました。このひと月は、何かにつけてキキを思い出し、涙、涙で過ごしました。でもたくさんの人の愛や祈りに支えられ、何よりも神様の愛と恵みに満たされて過ごす事ができ、寂しさの中でも本当に感謝にあふれたひと月でした。キキの亡きがらを、その日のうちに実家に車で連れていって、父や母のところで、代々かわいがってきた他のペット達を埋めてきた、庭の梅の木の下に一緒に埋めてあげられたことも、本当に神様の優しい心遣いでした。また、私たち家族のつながりも、キキの死を通してさらに深められたと思います。

Kevinのお母さんに、キキのことを報告した時、「これから4週間、自分の為にとって、存分に泣きなさい。そしてまた前に向かって歩みだすのよ。」と言われました。私の父や母も、私の悲しみや寂しさを一緒に受け止め、静かに見守ってくれました。弟や、義妹のTちゃん、親友のMちゃん、教会の人達、本当に私達の悲しみや寂しさを共有し、一緒に泣いてくれました。キキを通していただいた神様からの祝福は、数えきれないくらいありますが、キキの死を通して、なおさらその祝福と恵みが痛いほど身にしみて、キキの存在が、どんなに尊い神様からの贈り物だったのかを思わされています。

他の人が見れば、一匹の猫にすぎなかったかもしれません。でもキキは、結婚したばかりの私が、アメリカでKevinと一緒に自分達の家庭を築きあげる為の大事な土台の一つとなってくれた存在でした。Jが生まれた時から、私達はキキと一緒にJを育ててきたようなものでした。そしてアメリカ中を回ってサポート・ディスカバリーをしている間中、キキはいつも留守番して、私たちが帰る「家」という存在と空間を保っていてくれました。アメリカから日本に引っ越す時も、一緒に飛行機に乗って日本に来て、今度は日本で「我が家」を建て上げるための大事な要となってくれました。変化が多く、たくさんの調整が必要だった時も、いつもキキの存在によって、「ここが私たちの家だ」ということを確認でき、アメリカでの生活と日本での生活の橋渡しとなってくれました。私たちが2度、長期で一時帰国した時も、キキはいつも通り留守番をして、私たちの帰りを待っていてくれました。キキの存在によって、神様は私たちに本当にたくさんの支え、力、励まし、慰め、希望を与えてくださいました。

15年も一緒に過ごしてきたキキ。キキは、漢字で「喜姫」と書きます。私にとって、キキは本当に「喜びをもたらしてくれる、大切なお姫様」でした。キキのいない生活に慣れるには、まだまだ時間がかかりそうだし、今でもキキを思い出して、私と一緒にいないことをしみじみ感じると涙が溢れてきますが、キキと一緒に過ごした15年、本当に幸せな15年でした。私にとっていろんな意味で激動の15年でしたが、イエス様がキキを私達のところに送ってくださって、本当に幸せな感謝な時間でした。おりこうなキキは、死ぬ時も、女王様のようにりっぱでした。私のこと、私が思う以上に、神様が気遣ってくださり、キキをそのように生かし、死なせてくださったんだと思います。キキをいっぱい愛し、キキにもたくさん愛してもらったな…と思います。キキ、ありがとう!

Saturday, July 18, 2009

<合わせて100点>

今回、聖書を読みながら新たに悟ったことがあります。それは、罪を犯す前でも、人が神の目に良くない時があったということです。それはアダムが独りだった時でした。それで神はエバを創造されました。すると神の目にとても良く見えました。独りではさほど良く見えなかったのに、二人が合わさるととても良く見え、100点になったのです。

人は誰でも1人では完全ではありません。しかし、「私たち」なら完全になることができます。私の目に映る多くの人の点数は95点なのですが、そこに私の5点だけを補えば、私たちは神の目にとても良いものとなるのです。3人が合わさって100になることはもっと易しいことです。

しかし実情は、その反対の場合が多いのです。人が多くなれば多くなるほど、100点を取ることが難しくなります。それは、私たちが合わさって100点を取ろうとするより、各々が100点を取ろうとするからです。お前は30点足りない、お前は15点足りない。45点も足りないお前が、どうやってその仕事ができるのか、となじるからです。こうなるとお互いに苦しくなります。知恵のなかった時は、出会う人ごとに100点を強要しました。その人の点数が95点でも、残りの5点を埋めて100点を取れと言うのです。絶え間なくその5点を指摘し、批判しました。その足りない部分が、私の足りなさだとは思わなかったのです。それを私が埋めて、100点にしようとは考えなかったのです。

今、秘訣がわかりました。私たちは私たち独りでは100点を取ることのできない存在です。しかし、人が多ければ多いほど、100点を取ることは易しくなります。これはどれだけ楽しく、幸せなことでしょうか。合わせて100点ならば幸せなのです。

「パイプ幸福論」/チョー・ヒョンサム

Wednesday, July 15, 2009

<クリスチャンの香り>

造花は偽物の花です。しかし、造花は生花よりずっと派手で誘惑的です。本物より本物のように見えるのに、偽物です。造花が生花よりきらびやかで美しく見える理由が、そこにあります。造花には香りがありません。香りはいのちあるものの、密かな自己表現だからです。香りはそれらを生き生きとさせ、まばゆい生命力を存分に謳歌する者たちの持つものです。

ところが香りは、香りを放つ場所を選んだり、制限したりはしません。気に入らない人には香りを放たない、ということはありません。このことは、私たちが人や場所を選ぶことなく、香りを放つべきであることを意味します。ちょうど太陽の光が、良い人にも悪い人にも分け隔てなく照らすのと同じようなものです。

しかし私たちは、誰にでも同じように香りを放ちたくない、という誘惑にかられる時があります。もちろん自分を非難し、そしる人に香りを放つことは、決してやさしいことではありません。

しかし、香りの木は、自分を切り落とす斧の刃にさえ香りを放ちます。それは困難なことです。しかし、困難を乗り越えることこそが、香りを放つ美しさです。聖書は、私たちがキリストの香りを放つべきであると語っています。もし、私たちが香りの木のように、自分を切り落とす斧の刃にさえ香りを放ち、その凶器を香りに変えることができるなら、その小さな香りが広がったこの世は、どれほど美しいことでしょう。また、どれほどよい香りになることでしょう。

「香り高き世」/イ・スンウ

Sunday, July 12, 2009

<真理が聞こえない人>

20世紀の最高の知識人といえば、おそらくイギリスのバートランド・ラッセルを挙げることができます。ラッセルは幼い頃から、非常に賢い子どもでした。教会に通っていた彼は、その高い知能で聖書をたくさん読みました。そして、牧師達よりも聖書についてよく知っていると思うようになりました。彼は、自分の知識でたくさんの牧師たちを負かし、彼らの貧しい聖書知識をばかにしたりしました。ラッセルが、その広い知識を生かして書いた本のタイトルは何でしょうか。「私がクリスチャンでない理由」です。聖書を根拠として、キリスト教の虚構性を痛烈に批判する内容です。ラッセルは、聖書に関する豊富な知識によって、かえってイエスを信じることなく傲慢になり、キリスト教をばかにするようになったのです。

私たちは、みことばを読むと明らかに変わります。しかし、なぜラッセルは変わらず、むしろその知識の為に、イエスを救い主と信じなかったのでしょうか。

理解しがたいところです。悩んだ末に出たこたえは、「黙想」でした。

ラッセルは、聖書を情報や知識として知っていただけで、黙想はしませんでした。どんなにたくさん読んでも、黙想のないみことばは、1人の人を変えることはできません。黙想しなければ、みことばを知っていることが、かえって霊的な妨げになります。知識としてのみことばと、黙想したみことばはまったく違います。その為に、ラッセルの人生は、このような結果になってしまったのです。

「みことばとともに、主とともに」/ユ・ジンソ

Wednesday, July 1, 2009

<後ろ盾になってくださる主>

私たちを造ってくださった主よ
あなたはこの世のどの父親よりも強い方です。

私たちの住むこの世は、コネや人脈などがなければ
まるで雨に打たれる落ち葉のようです。

しかし、天の父なる神様、
この地を造られ、すべてのすべてであられる方が
私たちの手を握ってくださるため、堂々としていられます。
私たちは萎縮しなくてもいいのです。
そして、私たちは何でもやってみることができるのです。

主よ、あなたは私たちの後ろで影のように臨在してくださり、
御霊によって行く道を導き、
私たちの痛みをさすってくださる方であるため、
私たちはつまずいても、すぐ立ち上がり、
理不尽な目にあっても
毅然としていることができます。

王の王であられる主よ。
私たちの後ろ盾になってくださり感謝します。

主が私の父となってくださり
心強いです。
いつでも、どこでも…。

「今のままを感謝します」/パク・ギョンヒ