Monday, August 31, 2009

夏休み その3

夏休み:その3は、「模様替え、片付けと掃除」

我が家の家具は、アメリカで買ってはるばる日本まで持ってきた家具ばかり。日本に来る前に、新しく買って持ってきたものもありましたが、それ以前から使っていたものもあり、しかも、材質が本物の木じゃないので、かなりボロボロになってきていました。近年、その傷み方やゆがみがひどくなっていたので、「日本に来てから10年以上たったし、そろそろ家具も買い替えを考えないとね…。」と話していました。でも、お金もかかるし、家具を替えるなら部屋の使い方も変えようかとも思い、そう考えるとものすごいことになってしまうので、話をしつつも、さっぱり現実味を帯びていませんでした。

でもこの6月にキキが天国に行き、いつもキキが寝ていたピアノ(クラビノーバ)の椅子の下とか、ソファーとか、見慣れた部屋の中にキキがいないという光景があまりに寂しくて、私が泣いてばかりいたので、Kevinが、部屋の模様替えを決行!(もちろん、ちゃんと二人で話して相談して決めたのですが、最終的なGOサインはKevinが決めました、ということです。)

そして、IKEAという輸入物の家具屋さんで、DIYの家具を買いました。それを組み立て、今まで使っていたものを処分し、Kevinの書斎を移動し、リビングルームに新しい家具を置き、クラビノーバをリビングルームから1階に移して、私のレッスン部屋+ゲストルームにして…と、すごい模様替えをしました。一度にできることじゃないので、夏中かかってちょこちょこと進めていきました。

ピアノを移す時とか、今まで使ってきた家具を処分するとか、私は大泣きしながらでしたが、驚いたことに、移動や処分の時は心が痛んで大泣きしたのに、新しいものがおさまると、なんだかすっきりしました。そして、キキのことも、「寂しい〜」と泣く涙から、懐かしい大切な思い出、宝…というように私の中であたたかく変化し、悲しい涙を流すことがなくなりました。「変化」のもつ意味を、今までとは違う感じで経験できたような気がします。

それに伴い、あちこち片付け、整理し、処分し、今までできなかった所の掃除をし…と、家族中でよく働きました。Jも自分の部屋を整理し、処分したり、片付けたり、日頃ママが手抜きしているお掃除を自分でしっかりやったりして、Jの部屋もずいぶんすっきりと綺麗になりました。この状態を保つのが課題だな!というのは、Jと私の課題ですが…f(^_^;)。

私も、目についた時にちょこちょことですが、ガス台や換気扇、水道栓やキッチンカウンターなどの掃除をしました。結構忙しい夏だったのに、「気づいた時にちょこちょこ掃除」の継続効果はばっちり出たような…?(…と言っても、決して家中ピカピカにできたわけではなく、かなり私の「へぇ〜、私もよくやったじゃない。」という自己満足が大きいですが。)

それにしても、Kevinが整理整頓の名人ということはわかってましたが、まぁ〜、よく働くこと、よく気がつくこと…と改めて思いました。Jもよく手伝って、父子でDIYの家具組み立てをしている様子は、とてもほほえましい、嬉しい光景でした。

まだ100%完了したわけではありませんが、この秋から教会の子にピアノを教えることになり、また私の両親も泊まりに来る予定なので、その為に使える部屋も準備できたし、秋からの生活や働きの為、心新たに、いろんなものをもう一度主にささげ、祈りつつ励んでいきたいと思っています。

<お前のために何をしてあげようか>

神はあなたの祈りに関心を持っておられます。なぜなら、神はあなた自身に強い関心を持っておられるからです。あなたにとって重要なことは何でも、神にとって最も優先される関心事になります。神にとって、今あなたの人生で起こっていることよりも重要なことは、地球上のどこにもありません。あなたは神の関心を引く為に、神をわずらわせる必要がありません。

あなたにとって本当に重要なことが何であるかを知る為に、何時間もひざまずいて祈る必要も、断食する必要もないのです。神はあなたの父です。ですから、あなたが言いたいことがあるなら、神は聞きたいと思っておられます。事実、神はあなたが呼ぶことだけを待っておられます。

もし私の子どもが私に電話をかけてきて、「お父さん、どうかお願いします。大きなお願いがあるのです。私の切なる願いを聞いてください。」と言うならば、私はこう言うでしょう。「そんなに遠回しに言うことも、必死になる必要もないんだよ。私の人生でお前より重要なものがあると思うのかい。さぁ、お前の為に何をしてあげようか。」

「わたしの臨在の中に入れ。」と神は語られます。「わたしに話してくれ。お前のすべての心配事を打ち明けてくれ。わたしはお前に一番関心があるんだよ。お前の父だからね。わたしにはお前を助ける力がある。天と地とすべての権威がわたしのものだから。そして、わたしはお前の声がとても聞きたいから、いつも耳を澄ませているんだよ。」

「忙しすぎるから祈ります」/ビル・ハイベルズ

Friday, August 28, 2009

夏休み その2

夏休み:その2、はプール編。

「夏休みには、3回か4回くらいプールに行きたいなぁ。」と、夏休みが始まった頃に、Jが言っていました。サマースクールがあった2週間は、教会では子どもの英語クラス「English Bee」もあったし、忙しくて行けませんでしたが、Kevinが都合を合わせ、時間を作って、2回くらいJを市民プールに連れて行きました。

いよいよ夏休みも終盤になり、家族で夏休みを取ろうかと計画した時も、真っ先に出たのは「プール」。そこで、夏休みのお楽しみに、いつもKevinとJが行っている市民プールではなく、遊園地のプールに家族で行こう!と言うことになりました。普段は、私は一緒に行かないのですが、夏休みのお楽しみだし、どうせ入場券を払わなくちゃいけないんだから、ちょこっとでも水に入るかなと、私も水着を持って出かけたので、Jは大喜び♪

初めて行った遊園地のプール。まぁ〜、さすが遊園地!市民プールとは違うね〜という感じでした。流れるプール、小さい子ども用のプール、ジャンプ用のプール、波のプール、スライダーなどなど、種類もいっぱい。中にはレストランもあって、プールサイドでラーメンを食べている人もたくさんいました。うちは食べなかったけど、ラーメン大好きな私には、かなりな誘惑…?とってもおいしそうに見えましたf(^_^;)

いつも行く市民プールは室内プールですが、このプールはもちろん屋外。ひ弱な私、屋外だと太陽の照りつけですっかり疲れてしまうところでしたが、その日は曇り気味で、外にいてもあまり日があたらなくて、プールサイドで本を読んだり、KevinとJが流れるプールで泳ぐのを見たり、Jがスライダーで滑ってくるのを眺めたり、Jと一緒に波のプールに入ってみたり…と、私も楽しく過ごしました。

特筆すべきは、Jがジャンプ台からジャンプしたこと!サイズの違うジャンプ台が3つあり、小、中の台でジャンプしていたJに、Kevinが「あの大きい台(たぶん2Mくらい?)からジャンプしたら、今週のお小遣いは2倍!」と激励。「まさか、あんな高い所からジャンプしないでしょ。」と思っていたのに、Jの返事はなんとびっくり!「やってみる」と。

監視員のお兄さんが、順番でジャンプさせてくれるのですが、Jがおっかなびっくり一番高いジャンプ台に上がって、自分の順番を待っていたところ、なんと、一番小さいジャンプ台からジャンプした幼稚園くらいの男の子が、一瞬おぼれて、お兄さん達に助けられるというハプニングが!(その男の子は、何事もなく無事でした。良かった、良かった。それにしても、一瞬おぼれた途端に、そばにいた監視員のお兄さんの笛の合図で、他に2人のお兄さん達がさっとプールに飛び込み、見事なチームワークでその子を助けてあげたのには感心しきりでした。)その光景にびっくりして、Jがそろそろとジャンプ台から降りてきたので、「こりゃあ、もうやらないって言うのかな。」と思っていたら、お兄さんに「いいよ。」と声をかけられたJ、また果敢にジャンプ台に登っていきました。

「ピー!」という合図の笛の音と共に、ザッバーン!と見事にジャンプ成功!!!

プールの方は、ジャンプ用なので水深5Mもありますが、ジャンプした後はスイスイと泳いで上がってきました。

あとで「どうだった?怖くてやめたくならなかったの?」と訊いてみたら、「ちょっとドキドキしたけど、思いきって飛び込んでみて、『お〜、楽しい〜!』って思った。」と満足げに話してくれました。

ずいぶん大きくなって、男の子らしく、頼もしくなってきたんだなぁと、しみじみ思いました。楽しい家族プールの時間でした☆

<聖書にもっと近く>

私が聖書をしっかりと研究し始めた時、他の聖書研究者たちが、研究初期に経験したことと同じ道を辿りました。その時の私は、聖書のある部分が理解できず、またある部分を信じることができないでいました。そして聖書の中のある教えは、聖書の他の部分に出てくる教えと完全に矛盾していると感じました。そして、たくさんの人々がしたように、私は、自分が賢明な教えだと思える部分だけを受け取っていました。

しかし、聖書研究をすればするほど、神に近づけば近づくほど、聖書の中の理解できない部分が消え始めました。初めは一つずつ消え始め、次に二つずつ、その次には数十個ずつ消えていきました。月日が経つと、理解できない部分が驚くほど少なくなりました。

それと同時に、神に近づくほど、聖書に近づいていく自分を発見することができました。神に近づくということは、さらに聖書に近づくということを意味するのです。

ここに、誰も否定することのできない、数学的な真理があります。二つの線が、ある特定の点に向かって行くと、その点に到達した時、お互いにぶつかります。この数学的な真理に深い意味が込められています。

私は、神に近づくほど、聖書に近づいていきました。神と私が出会う時、聖書と私が出会うのです。聖書は神の観点で記録された本です。正直な人なら、この結論を、決して否定することはできません。

「みことばの霊を受ける方法」/R.A.トーレイ   

Wednesday, August 26, 2009

夏休み その1

夏休み…と言っても、もう終盤。あちこちで、新学期が始まっている学校も多いので、ちょっと時期外れな感じもしますが、Jの学校は9/7から始まるので、うちはもうちょっと夏休み…。というわけで、夏休みにしていることをいくつかご紹介。

夏休み その1

「夏休み」と言ったら、やっぱり宿題ですよね〜。Jの学校では、英語オンリーのカリキュラムに加え、日本語と日本の歴史や社会をちゃんと学べるようなカリキュラムで、それぞれ個別に勉強を進めています。英語の方の宿題は、夏休みになってから2週間、サマースクールがあって、その時にがんばって進めたので、休み中の宿題としては、そんなに多くありません。いつも学校でやっているように、自分で計画表を作り、計画通りに達成できたかどうかをチェックしながら、マイペースで進めています。

国語の宿題では、毎週月曜から金曜の5日間、天声人語を読むこと、そして週末には、その週のコラムの中で心に残ったものをピックアップして、感想文を書く、というものがあります。

天声人語を読むと言っても、音読の練習、漢字練習、意味を調べる…という濃い内容。結局、私がつきっきりで一緒に勉強しないと、J1人ではできないので、おかげさまで私も一緒に、毎日天声人語を読んで、いろいろ勉強しています。楽しいです。

大人の私は楽しく読めても、Jにとってはかなりのチャレンジ。時にママに怒られ、何度も読み方、書き方、意味などをチェックされて嫌になる時もあるようですが、それでも、「J〜、天声人語!」と私に声をかけられると、はいはいとやって来て毎日続けています。そして、マイペースだし、ゆっくりとした速度ではあっても、最初の頃に比べると、確実にいろいろな力がついてきているように感じます。

親子で勉強という方法は、お互い(特にママが?)忍耐をためされる時もありますが、でもそれぞれに神様に教えられ、反省したり、悔い改めたりする中で、神様から守られて、本当に楽しく勉強でき、いろんな話ができる時間にもなります。私もJも、一緒に勉強する中で第1に教えられたことは「面倒くさがらない」こと!いつになってもチャレンジですが…f(^_^;) こんな時間が与えられていることを心から感謝し、ケンカしつつも、一緒に楽しく勉強していきたいです!イエス様のご用をする、基礎作りがちゃんとできるよう祈りつつ…。

Friday, August 21, 2009

<私たちの手ですること>

多くの場合、私たちは自分がしたことや作り出したものに、心を奪われてしまいます。その理由は、私たちが成就した業績によって評価を受け、何かを生産し、形を造り、変化を起こし、この世に影響を及ぼそうとする、本能的な欲求があるからです。それ自体が悪いというわけではありません。神はこの世を治めるように私たちを召されました。しかし、私たちのすべての努力が完全に無駄になってしまうこともあります。私たちの熱心さが、偶像崇拝になることもありえるのです。

ですから私たちは、仕事に対する責任感からではなく、仕事が持つ支配力から自由にならなければなりません。エルロールは、「自我からの解放が持っている最終的なものは、『自分の手ですること』からの解放」であると指摘しています。

自分がすることや、自分の成した業績が、自分の存在の核心には成り得ません。神は、ご自身の仕事を共に成し、この世を変える者としての「同労者」として私を召されましたが、神は何よりも、私の今の姿をそのまま愛しておられます。実際、神は大変弱く足りない私を、そのまま愛しておられます。

自分の存在を決定する核心は、このように「神から受け入れられること」にあります。私は、偉大な恵みと慈しみの神に、驚くほど愛された存在であり、私がするすべての行ないを通して、神を完全に喜ばせる生活をすることができます。

「ジャック・エルロール黙想集」/チャールズ・リングマー   

Saturday, August 15, 2009

<一度に一歩ずつ>

人生はいつも謎だらけで、自分の予想通りには行きません。自分の未来を、手のひらを見るように眺められるなら、神を信じるという冒険を選択するよりも、怠惰に陥ってしまうでしょう。学生が教科書を全部理解できるなら、先生から学ぼうとはしないでしょう。それと同じことです。神がすべてのことを機械的に導かれるなら、神との関係は終わりです。私たちは、神と協力して人生を造っていく自由人であり、瞬間ごとに能動的に関わるべき被造物です。

しかし反対に、神が何も導かれず、自分自身が、すべてのことを選択するとしたらどうでしょう。とても不安で怖いはずです。心配のあまり、時間と体力を消耗してしまうでしょう。価値のあることに精力を費やせず、不確実な未来を知る為に思い煩うのです。つまり、神はご自身のみこころを見せられもし、隠されもするのです。

神は、一度にすべてを見せられはしません。そのお方は、私たちが歩いていけるだけ、見ることができるだけを見せてくださいます。山の頂上は、一度に見上げることはできません。一歩ずつ踏みしめていけば、最後に頂上が見えるのです。神は、私たちがその方を全面的に信頼し、冒険を試みる分だけ、私たちを導かれます。

J.I.パッカーは「神を知る知識」で、このように述べました。
「私たちが現在行動する為に必要な分以上に、未来に対して知らされたり、
 一度に一歩以上を導かれることは、神の方法ではない。」

「神、私のたましいの庭師」/ファン・ビョンチョル

Wednesday, August 12, 2009

<神の栄光に魅せられた者>

私には、特に大切にしているサングラスが一つあります。サングラスのレンズがどのように加工されているかは、よくわかりませんが、これをかけると、すべてが違って見えます。緑色はより強い緑色に、黄色はより明るい黄色に見えます。すべての色がより鮮明に見えるので、はずしたくないほどです。

私たちが神の栄光に魅せられる時、それはちょうど、このようなサングラスをかけているのと似ています。すべてのものが違って見えるのです。人生の目標はより鮮明になり、生活は新しい力に満ち、神の栄光に魅せられた人だけが味わうことのできる心の感動を感じます。私たちを霊的に完全にするだけでなく、霊的な挑戦である神の目標を、喜びをもって受け入れることができるのです。

私たちの人生への神の関心事は、私たちがただ道徳的で責任ある存在になることではありません。むしろ他の人の神への好奇心を刺激し、霊的で魅力ある存在になることです。キリストに似る人生とは、人々の心を惹きつけるが当惑させ、受け入れるが議論を引き起こし、怒りを刺激するが慰めを与え、何よりも周囲の人々を徹底的に愛します。このようにしてキリストに捕えられた人生は、他の人たちの神に対する新しい思いを刺激します。

ですから重要なのは、どのように従えば神が私たちの人生をより楽で成功する人生に変えてくださるかではありません。聖徒が悩むべき問題は、どのように神の御心に従えば、神の大いなる力が私たちの生活の現場でより鮮明に現れるかということなのです。

「内面の革命」/ドワイト・エドワーズ

Saturday, August 8, 2009

<予告のない主の訪れ>

働き人にとって一番重要なことは、人生のあらゆる状況の中で、イエス・キリストと対面する準備をすることです。これは決してたやすいことではありません。罪、苦難、環境を相手にした戦いではなく、神に仕えることに没頭していながら、実際にイエスと対面する準備ができていない自分自身との戦いだからです。私たちにとって重要なことは、信念や教理の前で完全な人になることでも、神に有用な存在になることでもありません。ただ、イエス・キリストと対面することです。

イエスは、私たちが予想しているような時には来られません。神は私たちが期待しない所で、予想することができない状況の中で現れます。働き人が神の前に正しくある為には、このように、「思いがけない時に訪ねて来られる神」を迎える準備ができていなければなりません。問題は、私たちの働きや礼拝ではなく、イエスをいつでも迎えることができる真実な信仰です。それでこそ、神が願われる幼い子どものような信仰で生きることができます。イエス・キリストを迎える準備をする為には、教会に通うことを高尚な生活態度とみなすような習慣的な態度を捨て、霊的に真実にならなければなりません。

宗教を流行として見る世の中の風潮を拒否し、神に視線を向け、神が願われることに集中し、神の立場から物事を考える時、人々はあなたを非現実的な夢想家とみなすことでしょう。しかし、慌ただしい日常生活の中で、突然イエスが現れたとしたなら、準備ができているのはそのような人達だけです。誰も信じてはいけません。この世で一番立派な聖者だとしても、イエス・キリストを見つめることを妨げるなら、無視しなければならないのです。

オズワルド・チェンバース

Friday, August 7, 2009

やっぱり伴奏者?

久々にバイオリンのこと♪先日のレッスンでは、今まで練習してきた曲が何となく形になってきたので、伴奏と合わせて弾いてみましょうということになり、先生にピアノ伴奏をしていただきました。

やっぱり、伴奏と合わせて弾くには、私のバイオリンはまだまだだな〜と痛感。でも確かに、伴奏がついたことによって、1人で弾いていた時にはなかなかわからなかったことが見え、感じ、いい勉強になりました。

ついでに、いつもは私がピアノで伴奏する立場なので、「伴奏してもらう」という立場になって演奏してみると、へぇ〜、ピアノってこう聴こえるんだ〜などと、ピアノ伴奏者としても、滅多にない勉強になったような気がしました。ほんとに、実際自分が経験してみないとわからないことや、気づかないこと、感じられないことってたくさんあります。

四苦八苦しながら、なんとか最後まで曲を弾き終え、ほっと一息。「いや〜、考えてみると、(TCCの時の)声楽のテスト以外に、こんなふうに伴奏してもらうって初めてのような…。いつもは私がピアノの伴奏者っていう立場なので、立場がかわると勉強になりますね〜。」と言ったところ、「じゃあ、立場かえてやってみましょうか?」と先生。つまり、私がピアノ伴奏して、先生がバイオリンを弾く、という形でやってみましょうよ、と…。

実は「先生に弾いてもらえたらなぁ…。」と思っていたので、「やった、ラッキー!」だった反面、ピアノの伴奏譜、さらっと見てはいるけど、先生の伴奏ができるほど、突然弾けるのか?!という不安もあり…。でも、先生がやる気十分で、私のバイオリンを受け取って、弾く体制に入っていたので、まぁ、ピアノなら何とかなるかな、と、私もピアノの前に座って、さらっと譜読みしていよいよ合わせました。

バイオリン大好きだけど、やっぱりピアノは私の長年の友であり、パートナーであり、存在の一部になっているんだなぁと、しみじみ感じた瞬間でした。そして、今ピアノを弾けるくらいにバイオリンを弾けるようになり、バイオリンが私の存在の一部になるのを楽しみに、これからもがんばって行こう!と思わされました。

それにしても、ピアノは(ある程度なら)楽譜を見れば、自然に指が動き、大体弾き方もわかり、(ある程度)自分で弾きたいように、(ある程度)弾きたい音で弾けるのに、バイオリンは難しい〜。でもピアノだって、もっともっと勉強していかなくちゃ。「ある程度」で止まらずに…と、バイオリンと共に、ピアノの課題も、山のようなこの頃。「ピアノでも、もっともっといろんな曲を弾いていきたい。バイオリンでも、ピアノを弾くみたいに(ある程度?)自由に弾けるようになりたい。神様、私はこんなにピアノとバイオリンが大好きです。どうぞ神様を賛美する為に、私のピアノとバイオリンを用いてください。ピアノとバイオリンで賛美させてください!」という祈りと思いがさらに強くなりました。

それにしても、先生の演奏はほんとにすてきでした。先生の音、弾き方、表現の仕方はすばらしかったです。私のバイオリンも、最大限にいい音を引き出していただき、バイオリンも嬉しかったんじゃないかと思うくらい。すごく勉強になりました。嬉しかったのは、ほとんど初見でドキドキしながらのピアノ伴奏だったけれど、初めて合わせたとは思えないくらい、結構いい感じで合わせられ、先生に「かおりさんの伴奏、すごく弾きやすいですね。いや〜、久しぶりに楽しく弾けました!」と言っていただいたこと。昔からずっと伴奏大好き♡なので、伴奏者としての私には、一番嬉しい言葉でした。

たまたまレッスンに一緒に行って、私達の演奏を聴いていたJの感想:「ママはピアノ弾く方がいいよ。」
私:「…?どういう意味?」
(Jいわく、「ママは、バイオリンもがんばっているけど、ピアノの方がもっと上手だね。」という意味だそうな。優しい息子よ、あたたかい励まし、ありがと〜!)

JとKevinに、「ママのバイオリンも上手になったね」と言われるようになることをめざし、教会でバイオリン・デビューする日を楽しみに、これからもがんばろ〜。

キッズ英語クラス

先週、今週と、2週間で計4回、「夏期集中こども英語クラス」をしました。火曜日と木曜日の午後、1−2時の「幼稚園〜小学3年生のクラス」、3−4時は「4年生〜6年生のクラス」で2クラス。合計約20名のお子さん達が参加してくれました。教会にいつも来ている子達も、もちろん参加してくれましたが、教会のRさんのつながりで、Rさんが個人的に配布してくれたチラシによって、今回まったく初めてのお子さん達もずいぶん参加してくれました。私はいつも、Rさんの存在と交わりに、いろいろ教えられ、励まされているのですが、今回は特に、Rさんの賜物を通して、神様のご栄光が現されたことを痛感し、本当に感謝でした。そして大いに助けられ、支えられました。

クラスでは、Kevinがメインの先生として教えましたが、短期宣教師として来られている若〜いご夫妻、S兄とE姉が、準備や、クラスのアシスタント先生として、良い働きをしてくださいました。また、教会の方々も大勢、いろいろなところで関わり、奉仕し、支えてくださいました。私は、Jが風邪をひいたり、教会の他のことや、自分自身の体力のこともあり…でエネルギー不足を感じるこの頃。英語クラスの時は、受付に座って様子を見たり、クラスの為の準備、設定の手伝いをしただけで疲れてしまい、以前のように子どもたちに積極的に関わるという形での奉仕はできませんでした。でも、そんな私の弱さを補って余有るほど、教会の方々のご奉仕や存在に助けられ、励まされ、支えられて、神様の体なる教会が、それぞれに機能して一致して働く姿を見せていただき、そういう意味でも私には大きな祝福でした。感謝♪

ケガも事故もなく守られ、子どもたちもお母さん方も、新しい知り合いが増え、楽しく英語クラスをすることができて、本当に嬉しかったです。すべて御手の中で守り、導いてくださった神様に感謝!そして、何週間もかけて、教材を選び、勉強し、クラスのデコレーションやテキスト、視覚教材を作り、自分も体調があまり良くない中、主にすがって良い働きをすることができたKevinを見ながら、私もいろいろ教えられました。教材準備の「工作」には、短期宣教師のS兄、E姉と共に、Jもいろいろ手伝ってくれました。E姉は、独身の時にも2回くらい日本に来て、週日にいろいろ私達の為にお手伝いをしてくださって、前から知っている方です。その彼女が結婚し、ご主人と共に今回短期宣教師として来日し、将来的にも「宣教師」という働きを視野に入れて祈っているので、彼らの今後も、主がどのように導いてくださるのか、楽しみに祈っていきたいと思います。

忙しい2週間でしたが、神様に守られ、多くの方々の祈りに支えられ、まずは倒れずに責任を果たすことができて感謝です。なるべく早い時期に、教会として「こども英語クラス」を再開する予定でいます。神様が良い導きを与え、このミニストリーを祝し、私達にとっても大きな喜びとなる働きにつながっていきますよう、お祈りください。