Friday, February 27, 2009

<約束の箱>

説教者として名声を轟かせたドナルド・グレイ・バーンハウス博士は、学生時代フランスに住んでいました。彼の家の夕食には、小さな約束の箱というものが、いつも置かれていました。その中には、聖書から引き抜いた200余りの約束のみことばが入っていました。彼の家族は、特別な慰めが必要な時、その中から1つを選んで読みました。バーンハウスが福音を伝えたフランスの少女がいました。その少女はバーンハウスの家によく遊びに来て、バーンハウスの家族が箱の中から聖書のみことばを引いて読む姿を見て、自分も約束の箱を作りました。

時が流れ、大人の女性に成長したその少女は、世界大戦の中で窮地に追い込まれました。食べる物と言えばじゃがいもの皮が唯一で、子供達は骨だけの状態でした。絶望に陥った女性は、自分が作った約束の箱を見つめてこう言いました。「ああ、主よ。私達を助けてください。この箱の中に本当に私達の為の約束が入っているのでしょうか。」

手を伸ばして箱を掴もうとした女性は、涙で前が見えず、そのまま箱をひっくり返してしまいました。約束のみことばが周りにどさっとこぼれ落ちました。彼女の膝の上にも、地面にも、あたり一面みことばで埋め尽くされました。まさにその瞬間に、女性は1つの重要な事実に気がつきました。箱の中のみことばで、彼女が引いた1つのみことばだけではなく、神のすべての約束が自分に有効であるということです。その後、女性は言葉に表せない喜びと力を得て、絶望的な瞬間にも、神の約束にしっかりと信頼することができました。

生命力あるクリスチャンの人生/デイビッド・ジェレマイヤー


*一節の黙想:マルコの福音書16:2-3*
教会の使命、すなわち全世界に福音を伝えるということには、大きな問題が伴います。それはどれ1つとっても簡単なことではありません。人間的な頑なさ、病気、危険、孤独、罪、欲、教会の争いと堕落といった現実を前に、少数の宣教師達に何ができるのかと思えます。しかし私達は、復活の聖日の女性達のように、イエスへの愛と感謝の気持ちで進み行き、大きな障害物を神にゆだねなければなりません。
ーグラント・オズボーン/聖書注釈家

さむ〜い一日☃

今日は寒い!

首都圏では、この冬一番の寒さだとか。で、なんと一時雪が降りました☃もちろん積もるほどではなく、あっと言う間に、また雨に変わりましたが、久々の雪は、北国育ちの私にはなんとなくなつかしい風景でした。

午後になって、いつもの注射で病院に行きました。教会のHさんから7年くらい前にいただいた、とってもあったかいコートを来て(「今年の冬は、もう着なくていいかも…。」と思っていたけど)、茶色のクマさんのようになって、ほくほくと歩いていきました。

病院の中も、玄関のドアの開閉でさむいさむい…。

注射が終わって、会計の順番を待っていた時、その寒さを吹き飛ばすような一言が聞こえてきました。

「孫が、車で迎えに来てくれるんだ!」と、どこかのおじいちゃんの声。

嬉しくて、誇らしげで、はちきれんばかりの笑顔と、幸せそうな一声に、なんだか心の中がぽっとあたたかくなりました。「そりゃあ嬉しいよね、おじいちゃん!いいお孫さんですね!」と、話しかけたかったけど、それはしないで、心の中で言いました。ず〜っと前に亡くなったじいちゃんが、よく私達孫の自慢をして嬉しそうにしていた顔を、ふと思い出してなつかしくなりました。

寒い一日の中の、暖炉のようなひとときでした。

Monday, February 23, 2009

成長期

昨日の夜ご飯の時のこと。

日曜の夕食は、教会の後なので、たいていどっぷり疲れ果て、夕食の準備は簡単なものにするか、または何か注文したり、おかずを買ってきたり…という感じで済ませることが多いです。または、土曜日に余裕があれば、カレーとか、シチューとか、次の日も食べられるものを多めに作っておくとか。あ、そうそう、教会のお昼がカレーライスの時は、教会の熟練主婦の皆さんの作ったおいしいカレーの残りを、いつも「はい、これ、かおりさん達の夕食ね!」と、持たせてくださるので、それをまた食べたり、ほんとに、みんなに心にかけていただいて、助かってます。

で、昨日の教会のお昼は、教会で準備するお昼でなく、「お弁当」で、自分で準備する昼食でした。それぞれに、お弁当を作って持ってきたり、そばのコンビニで買ったりして、わいわいと食べています。うちは、もちろんコンビニご飯(情けないけど、土曜日フル稼働で礼拝の準備をし、日曜の朝に3人分の弁当を作り、その上また礼拝でフルで奉仕するエネルギーなど、私にはございません(-_-;)。その時、夕食のおかずになるようなものも買って、家に持ち帰りました。

大好きな中華サラダに、スパゲティーサラダを買って、タンパク質は、生協の「ミートボール」のパックをあたため、豆サラダと、自分で作った豆腐と大根のお味噌汁。

ミートボールは、ほんとに一口サイズの小さいもの。2袋開けて、計16個でした。で、3人で分けたわけですが、KevinとJは5個ずつ。私は3つで、みそ汁に、豆腐をいっぱい入れました。あとの3つは、月曜日のJのお弁当のおかずにしようと思って、そのまま台所のカウンターに残しておいたのです。

お祈りして、「いただきま〜す」と食べ始めたら、Jが、ご飯にかけるふりかけを取りに、キッチンに行きました。そして戻ってきたら一言。「ママ、キッチンにまだ、ミートボールが3つ残っていたけど、食べてもいい?」と、フォークに、ミートボールを一個刺して、持ってきました。

「え?食べるのはいいけど、5個じゃ足りないの?」

「だって、ミートボール、小さいよ。もっと食べたい。」

「じゃあ、いいよ。全部食べてしまえ。」

と、キッチンのカウンターに、明日のお弁当用に残しておいたミートボールも持ってきて、Jにあげました。

いくら小さいとは言え、最初の5個+弁当分の3個のミートボール、みそ汁、ご飯、2種類のサラダもペロっと食べて、満足した様子。はぁ〜、よく食べたねぇ…。

それを見ていて、つくづく、「まだまだ小さいと思っていたけど、Jもほんとに成長期に入ってきたんだなぁ…。」と実感したママでした。今年は13歳になるし、いよいよティーンエイジャーだものね。毎朝、寝癖で爆発している(?)髪の毛を、私がくしで整えてあげるのですが、最近、毎週月曜の朝になると、「あれ?なんか、先週より頭の位置が、心持ち高いみたい。」と思うようになりました。まだ私の方が背は高いけど、そのうち、昔弟に背を抜かされたことの再現の日が、間近に迫ってきているんだろうなぁ。。。と、カウントダウンしている感じです。


「成長」と言えば、今日は、Sちゃん(男の子)の19歳の誕生日。生後2ヶ月ちょっとから、Sちゃんのお母さんが働いている間、うちの母が、うちでベビーシッターをしました。ちょうど私はTCCを卒業して、母教会のスタッフとして働き始め、家で両親と一緒にいたので、赤ちゃんのSちゃんを、母と一緒にお世話しました。おむつを替えたり、ミルク、離乳食をあげたり、一緒に遊んだり、Sちゃんも私をとっても好きになってくれて、私と一緒に、どこにでも行き、ほんとにほんとにかわいくて、楽しくて、Sちゃんとその時の思い出は、私の宝物です。

Kevinと結婚して、アメリカに行く時、パパ、ママ、弟と離れることも悲しかったけど、それ以上に辛かったのが、Sちゃんと離れることでした。アメリカに行く日の朝、新幹線に乗って出かける私を、満面の笑顔で、見送ってくれたSちゃんの顔、今も忘れられません。アメリカに行ってから、外で遊んでいる時に、空に飛行機が飛んでいるのを見ると、「お〜い、かおりちゃ〜ん、Kevin兄ちゃ〜ん!」と、大声で叫んで、手を降ってくれていたそう。小さいSちゃんからもらった手紙や、プレゼント、写真は、大事に聖書の中にはさんでいます。

とっくの昔に、私の背を追い越し、今は、私をおんぶできるくらいのたくましい男の子になったSちゃん。でも中身はあの時のまま、実家に戻るたび、必ずうちに会いに来てくれて、Jのこともかわいがってくれます。Sちゃんも、弟のKも、イエス様を信じることができますように、お父さん、お母さんも、みんなで神様の家族になれますように…ずっと祈り続けているこの祈り。神様がいつかなえてくださるのかなぁって、とっても楽しみです。

2月は、20日がキキの誕生日。23日がSちゃん、25日がSちゃんの弟K、そして27日は、アメリカで2年以上、生後5ヶ月から2歳までベビーシッターしたSの誕生日。しかも、キキと、KとSの2人と1匹は、同じ年生まれなのです。Kは、私が結婚してから生まれたので、赤ちゃんの時はお世話できなかったけど、SちゃんとSをベビーシッターしたことは、後に、アメリカで出産、育児をする私に、いろんな備えをさせる為、イエス様が与えてくださった恵みでした。そうでなかったら、Jを育てることは、ほんとに大変だっただろうけど、おかげさまで、成長の道筋が見えていたので、いろんな時、悩みつつも、祈りながら、どこかのんびりと安心して、赤ちゃんのJを育てることができたなって思います。

Sちゃん、お誕生日おめでとう!K、Sも、お誕生日おめでとう!生まれてきてくれてありがとう!イエス様、みんなのいのちをありがとう!イエス様を信じる信仰へと、この大事な子供達を、必ず導いてください。。。Jも甥、姪も、教会の子供達も、ベビーシッターをしたり、ピアノを教えたりしてきた子供達も、Jのお友達も、その家族も、みんなみんな、イエス様によって、神様の家族になれますように。。。

Friday, February 20, 2009

キキの誕生日

今日は、キキの15歳の誕生日です。夕飯の時、キキを囲んで、みんなで「Happy Birthday」を歌ってあげました(^^)♪

ねこの15歳は、正確に、人間の何歳くらいなんでしょうね。85歳とか、90歳とか…?キキの生活って、ねことしては波瀾万丈の日々だにゃあ。。。

生後2ヶ月で、ペットショップで売られていたキキ。「ねこを買いに行こう」と、Kevinに連れられて行ったペットショップで、まだ2ヶ月だったキキに会いました。ほんとは茶トラのオスが欲しいと思って行ったのに、キキを見た途端に「この子だ!」と決定。いろいろ準備があって、次の日に、会社の帰りにKevinがペットショップでキキを引き取り、家に連れて帰ってきたのでした。Jが生まれる2年前のことでした。

その後、Jが生まれ、宣教師になって日本に来る為に、アメリカ中を旅行しての「サポート・ディスカバリー」が始まって、キキはお留守番ばっかりさせられ、その後はなんと、飛行機に乗って、キキも日本へ。日本に来てからも、2年に1回は私達がアメリカに戻るので、その間、いつもお留守番(良いご近所の方々に恵まれて、ほんとに感謝です)。引っ越しも4回。1993年6月〜1994年3月まで一時帰国の時は、Iさんご夫妻がキキと一緒に住んでくれて、留守中の家守をしてくださり、去年4月〜8月に一時帰国の時は、私の両親のもとでお世話になって…。なんだかほんとに、「キキ、苦労かけるねぇ。」という感じですが、その時々にお世話してくださった皆さん、近所、教会の皆さんに、ほんとにお世話になったし、かわいがってもらったし、愛をたくさん受けられて、感謝だなぁ〜って思います。

最近、「キキも年取ったなぁ。。。」と思うことが多いけれど、ずっと元気に楽しく過ごせるといいね…、イエス様、キキを守ってください、と祈らされます。人間と同じで、年とって、なおさら甘えん坊になったようなキキ。甘えたくなると、私やKevinに「抱っこ〜」と寄ってきて、ごろごろと喉を鳴らして喜んで、安心している様子は、「私も、イエス様にこうやって抱っこしてもらおう」という思いにさせてくれるし、「メリーさんの羊」のごとく、私やKevinの後をついて来るキキを見ると、「良い牧者なるイエス様にぴったりくっついていること」を思い出させてくれるし、キキの存在は本当に、我が家の宝物です!

Thursday, February 19, 2009

臨機応変と切り替え

昨日は、バイオリンのレッスンでした。最近、音階練習もみっちりするようになってきたし、曲も、1〜2ページの長いものになり、先生も私も、ついつい熱が入って、30分レッスンのはずが、気がついたら45分弱のレッスンになってしまい、私の後の人にご迷惑をかけてしまいました…。「すみませ〜ん」と受付の人にあやまったら、「いえいえ、そんなに熱を入れて夢中になれるレッスンというのは、すばらしいことです。」な〜んて言っていただけて、ほっとしましたf(^_^;)


ところで、最近の課題は「バイオリンの弦をおさえる時、ピアノの鍵盤を弾くかのごとく、指板の上で、指をパタパタしないこと。」


忍耐強く、

「指はそんなにあげなくていいんですよ。」

「ほら、こういうふうに弦を押さえると、無駄な動きもなく、定位置で音も取りやすいし、見た目もきれいでしょう?」

「指板の上を這うごとくですよ〜。」

と、繰り返し、繰り返し教え、声をかけてくださる先生。


私がずっとピアノを弾いているを知っているので、「まぁ、何にでも、長年培って体が覚えてしまうやり方ってありますからね〜。すぐに切り替えようとしても無理ですよ。少しずつ、意識をして、バイオリン用の指を覚えていくようにしましょうね。」と、若いのになんてすばらしい!と感心するばかりです。そして、その言葉に教えられ、励まされて、すこ〜しずつですが、意識を切り替え、気をつけることができるようになってきました。

先生といろいろ話していた時、学生時代はパイプオルガンも弾いたという話になり、ピアノとパイプも、おなじ鍵盤楽器とは言え、弾き方がぜんぜん違うんですよね〜、なんて言ったら、「じゃあ、バイオリンもオルガンだと思ったら?」と、先生からのアドバイス。すっごくわかりやすいアドバイスではあったのですが、私の情けない答えは、「そういえば、オルガンの先生に『あなた、ピアノ弾くみたいにオルガン弾いているわよ。オルガンはピアノと違うのよ。』って、よく言われました…。」

先生曰く、バイオリン弾きの先生は、私の場合と反対で、「鍵盤をたたく、打つ」という指の動きが怖くてできないそうです。だから、先生は、ピアノを弾く人を尊敬せずにいられないんだとか。

それぞれの楽器で、それぞれの特徴があり、それを体で覚えて、その楽器に一番ふさわしい方法で演奏していくこと…。難しくもあり、チャレンジでもあり、そしておもしろく、醍醐味を感じられるところです。

それにしても、「臨機応変」と「頭と心の切り替え」
ありとあらゆる面で適用される、神様からの訓練だわ…(-_-;)と、応用問題が大の苦手で、「臨機応変」も「切り替え」も、不得意きわまりない自分を、改めて知る機会となっています。生きている限り、ほんとにいろんなことを学ばされますね。だからこそ、生きてるのっておもしろいんでしょうけれど。

でも、どんな時にも優しく、ほほえんでそばにいてくださるイエス様を思うと、嬉しくなります。こうして遅々とした歩みであっても、その時々に、何かを感じ、学ぶことができるように導き続けてくださるイエス様。そして私が何かを感じた時、気づいた時、学んだ時に、「そうだよ!」「すごいね!」って、私の驚き、感動、喜びを共有してくださるイエス様。最近感じていることをいろいろ書きましたが、結局言いたかったことは、「イエス様にこんなに愛されて嬉しい!」っていうことに尽きます(*^_^*)

Tuesday, February 17, 2009

<あなたのつぼを割りなさい>

何人かが集まり、切なる心で祈りをささげ、神の臨在を深く感じます。しかし、祈りを終えた後、わずか10分もたたないうちに、神の臨在の恵みがどこかに消え去ってしまいます。あなたはこのような経験をしたことがないでしょうか。

神の臨在を感じたにもかかわらず、人格的に体験することができない理由は、神の臨在を引き寄せる香りが、あなたから出ている香りではないからです。あなたは、他の人が発散した砕かれた心の香りを、横からつまんで楽しんだのです。

マリヤがイエスに対し、痛んだ心でつぼを割ったその夜、彼女は変わらずイエスと同じ香りを感じることができました。彼女が眠りについた時も、次の日の朝起きた時も、イエスと同じ香りを感じることができました。あなたもこのような体験を望んでいますか。神に出会い、その出会いの力を常に感じたいと思っているでしょうか。

あなたのつぼを割ってください。マリヤは目の前におられるイエスの為に、自分の未来を犠牲にしました。あなたは神の臨在体験にたっぷり浸る為に、神に何をささげますか。今、つぼを割らなければなりません。心の扉を開いて、ただ主にだけ出会うことを期待し、すがりつかなければなりません。

もし、あなたが何の犠牲も払わなければ、あなたは決して砕かれた、悔いた心を持つことはできません。あなたが何の犠牲も払わず、無味乾燥な礼拝をささげるならば、恵みは瞬間的に終わってしまいます。しかし、すべてのものをささげ、情熱をもって礼拝をささげるならば、神の恵みはあなたにとどまり続けるのです。

切に求める信仰/トミー・テニー


*1節の黙想:マルコ14:6*
神を純粋に愛することは、霊的な、聖なることを通してだけ確認できるのではありません。むしろ単純で平凡な日常の中で、私達は、神と愛の関係に浸っているということを証明できるのです。あなたは、ベタニヤのマリヤのように、神の働きを適切な時に、示された通りになし遂げたことがありますか。私達が神を本当に愛するのであれば、神は私達の中で、価値のあることを行なわれるでしょう。
ーオズワルド・チェンバース

Sunday, February 15, 2009

バレンタインデー

先週の土曜日は、バレンタインデーでした。日本では「女の子が男の子にチョコレートをあげて、告白する」っていう日になっていますが、和洋折衷の我が家では、アメリカ式のバレンタインデーでした。KevinとJの二人から、「ママ、大好き〜♡」という、ウルウルもののカードをもらい、私が、二人からチョコレートまでもらっちゃいました。私の方では、Kevinにはカロリー半分のカフェオレのスティック一箱をあげて、二人の為にチョコレートケーキを作ってあげました。

そんな感じで、家でのバレンタインデーは、結局私が一番、いろいろとプレゼントをもらってしまいました…。ちょっと、「これでいいのか?」と思わないでもありませんでしたが、まぁ、あんまり深く考えないことにして。。。へへへ。

でも、KevinとJは、教会の人達からチョコレートたくさんもらってました。

「パパとお兄ちゃんに焼いてあげたホットケーキのおすそわけ」

「(土曜日は役員会だったので、その時の話)みんなで食べようと思って、おいしいプリン作ってきたの。さぁ、いっぱい食べて〜。」(ほんとにおいしかった…(^^)

「Kevin先生のダイエットの邪魔になると悪いから、Kevin先生には小さい箱にしました。Jはたくさん食べて大きくなってね。」

「Kevin先生は結婚してるから、Jだけにあげるね♪」

「Kevin先生の分は、かおりさんが調整してあげてくださいね。」

「Kevin様、J君、恵みの中で、HOP! STEP! JUMP!」

いろんなコメントやカードつきで、チョコレートにはしばらく困らないほど(?)、チョコレートと共に、たくさんの愛、祈り、励ましをいただきました。イエス様の愛と恵みをいつも以上に感じ、嬉しく感謝なバレンタインデーでした♡

今年のバレンタインデー。私は、本当に受けるばかりでしたが、いろいろ悩んだり、不安に思ったり、落ち込んだり、迷ったり、疲れたりしているさなかだったので、神様からの大きな励ましだったなぁと思います。大きなことをする力、エネルギー、時間はない私ですが、自分にできることを、自分にできる範囲で、自分に示されたことを実行し、イエス様の愛と恵みを、人々に分かち合っていける者にならせてください、と祈らされました。

Wednesday, February 11, 2009

ごはん

先々週、ちょっと体調が悪く、微熱→大汗→微熱→大汗が2−3日続いたことがありました。風邪の引きかけだったのかもしれませんし、なんだかよくわからなかったのですが、日頃から弱い私を心配して、教会のMさんが、おかずを届けてくれました。Mさんも、私と同じ、体の弱い姉妹なのに、こんなにしてくれるなんて…と、本当に嬉しく、感謝感激でした。Mさん、Tさん(ご主人)、ほんとにいつもありがとう〜。

Mさんが持ってきてくれたのは「鍋」でした。鶏肉、長いも、ネギなど、と〜ってもおいしかったし、心も体もあったまりました♡

そこで、ふっと、「あ、そういえば、今年は鍋料理してないなぁ。」と思いました。具合悪い時は、野菜いっぱい入れて、たくさんスープを作ったけれど、鍋もいいよね…と。最近、忙しかったり、疲れたりばかりで、買い物はほとんど生協の配達ですませ、自分でお店に買い物に行くこともご無沙汰していたので、食材が整わないということもあったのですが、何より、『鍋』料理の存在すら忘れていたのです。

「やっぱり、自分でお店に行って買い物するのも必要だし、いろんな意味で気晴らしにもなるよね〜」と思い、月曜の病院の帰り、近くの「ヨシダヤ」という小さな個人のスーパーで、ちょこっと買い物して帰ってきました。

そしてその夜。数日前からネットで見つけて「おいしそうだなぁ」と思っていた「豚バラ肉と白菜の鍋」を作ってみました。白菜を鍋の高さに切って、白菜を立てて鍋に入れます。白菜の間には、あらかじめ湯通ししてあるバラ肉をはさんでいきます。そして、水600ccを入れ、塩小さじ2を入れてフタをし、弱火で蒸し煮にします。レシピでは、人参をうすく輪切りにしたものも、豚肉と一緒に白菜の間にはさんでいましたが、私はどうしても春菊が食べたかったので、最後に春菊も入れました。あと、しめじを上にのせて煮ます。

鍋というと、ポン酢に大根おろしで食べたい私。レシピには書いてなかったけど、夕食直前に電話してきた母の勧めもあり、結局、私流に、大根おろしとポン酢で食べました。KevinにもJにも大好評でした!でもKevinは「野菜ばっかりじゃなくて、もうちょっと肉も欲しかった…。」と一言。この次は、もうちょっと肉の量を増やしてあげましょう。

そして昨日の夜。学校帰りにJの髪を切りに連れていき、「ついでにさ、サーティーワンでアイス食べて行きたい」と、6時にもなっているのに、そんなことを言うので、「え、もうご飯の時間だよ…」と思ったけれど、いつも我慢ばっかりしてるしな…と思いなおし、優しいママは(?)、「じゃあ、いいよ。」とつきあってあげました。そして満足したJに、帰り道、「今日の夜はさ、豚のバラ肉もあるし、お好み焼きにしようか」と言ったら、「おぉ〜、最近、ごはんすごいね!」と感激の様子。

「お好み焼きが、そんなにすごいのかぃ?」と思って「はぁ?」という顔をしていたらしい私に、「え、だって、めずらしいじゃない。」とJ。

確かに、うちではお好み焼きってあまりしたことありません。というのも、Jが幼稚園の頃に、お好み焼きをしたのに、KevinにもJにも不評だったからです。それを持ち出して「だって、Jがあんまり喜ばなかったんじゃない!」と言ったら、「だんだん変わってきたんだよ。」な〜んて、生意気なことを言ってました。近年、弟の所でお好み焼きをごちそうになった時は、「おいしい」と思ったらしいのです。

何であれ、今度は不評になることもなさそうだな…と思いながら、家に帰って、10分でお好み焼きの準備をし、ホットプレートで焼きました。ちょっと粉が少なめで、失敗したなぁと思ったけれど、おいしく出来上がり、みんな喜んで食べて良かったです。ついでに、月曜の鍋の残りに、ダシと醤油を入れてスープにして、一緒に食べました。味がしみて、とってもおいしかったです♪

Mさんの優しい鍋は、具合の悪かった時に大きな助けになっただけでなく、後にこうして、私に力とやる気を与え、おいしい夕食、家族の交わりが深められる刺激ともなりました。…なんて言うと、大げさかもしれませんが、「神様のみわざって、こうやって大きく広がっていくのかもなぁ…。一人の人が、1つのことを、まごころこめて、主の御名のもと、祈りつつ行なう時、神様のみわざがこうしてなされていき、他の人を生かすんだなぁ。」と思わされ、教えられた「鍋」料理でした。イエス様の愛と恵みに、しみじみ感謝です。。。

<聖書の判断に従う知恵>

私は聖書を研究しながら、このような経験をしました。聖書の解釈で別れ道に何度も立たされ、その度に、理性的で常識的な私の判断は、聖書の判断と大きく異なりました。この上なく愚かであった私は、聖書をさしおいて、自分の理性と常識が指示する方向へ進みました。しかし何度も逆戻りして、結局は、聖書が示す方向に進むしかありませんでした。

このような経験をしたことから、私は、今度自分の判断と聖書の判断が食い違った時は、自分の判断をきっぱりと放棄して、聖書の判断に従いたいと思います。なぜなら、私の判断はいつも、間違っていたからです。

理性主義者は、無限の知恵の教えを、自分自身の有限な判断によって批判しようと試みます。自分の理解できないことを、神は語られ行なわれる、理解できなくても、神にはそのようにする理由がある、ということを考えられないのです。

「神は私よりももっとよく知っておられるはずだ。私には理解できず、間違っているように思えても、神はいつも正しいはずだ。」との思いが、私を捕えたことがありました。その時が、私の人生で最も重要な発見をした瞬間でした。

みことばの霊を受ける方法/R.A.トーレイ

Tuesday, February 3, 2009

<追われるほど、召しに従え>

みことばを黙想しながら思うのは、神が私達に何かをさせられる時、なぜ、いつも忙しく、目が回るような時ばかりを選ばれるのか、ということです。お金も少しはあって余裕がある時には、献金についてあまり語られないのに、当面の生活も苦しい時に限って、献金しなさいと語られます。忙しくて倒れそうなのに、時間を作って奉仕しなさいと言われます。心に余裕がなくてトゲトゲしているのに、愛しなさいと言われます。もしかして神は、悪趣味なのではないか、とまで考えます。

しかし、もう一度考えてみると、神がそのようにされるには理由があるのです。最も大きな理由はこれです。私達が日々追われているが故に、追われながら絶望して、そのまま死ぬしかないが故に、神の働きをくださるのです。神が定められた日々を、虚しく生きることが罪であることは知っています。しかし、まず今、食べて生きていかなければならないという、目の前の現実に追われる中で、ただ必死に生きていくしかないのです。実に悲しく、やるせない現実です。

しかし、このように何かに追われる状況の中では、成熟や勝利は絶対にありえません。ですから神は、私達がこの悪循環から抜け出せるようにされるのです。

神は、私達を苦しめる為にではなく、私達を愛しておられるが故に、介入されるのです。今、食べて生きることにのみ、忙しい状態を続けていれば、死ぬまでそのようにして生きて、死ぬしかないのです。ですから、献身の決断を促し、介入されるのです。それは、全的に私達を愛しておられるからです。

神の命令が下った時、私達に必要なことは、理解と納得ではなく、従順と決断です。
ただそのまま決断し、従うだけです。

神の自信/ユ・ジンソ

<レイノルドの満足>

トーマス・コスティンは、著書「The Three Edward」の中で、14世紀にあったことについて話しています。

兄弟であるレイノルドとエドワードは、激しく戦いました。エドワードが先に攻撃を始め、レイノルドを捕えてニューコーク城に閉じ込めます。しかし、そこは牢屋ではなく、非常に安楽な空間でした。鍵もかかっていませんでした。エドワードはレイノルドに、牢屋から抜け出すことさえできるなら、彼が望んでいた地位と名誉をすべて返す、と約束します。

けれどもレイノルドは、牢屋から抜け出すことはできませんでした。その理由は、牢屋の門が他の門よりもせまく、レイノルドはとても太っていたからでした。彼が牢屋から出ることより、らくだが針の穴を通ることの方がずっと楽でした。彼が牢屋から抜け出すには、やせるしかありませんでした。それは、少しのパンと水だけしか与えられない囚人には、たやすいことでしたが、レイノルドには、とても大変なことでした。

エドワードはレイノルドに、毎日、脂っこくて刺激のある食べ物と、おまけに、甘く香りのいいエールビールとワインを差し入れました。それは、寛大さを装った虐待でした。レイノルドは食べてはまた食べ、さらに太っていきました。レイノルドは、門の開いている牢屋に10年間閉じ込められ、死んだ後にようやく出てくることができました。彼が、自分の国を取り戻す為にしなければならなかったことは、ひもじさに耐えることだったのです。

神の休息/マーク・ブキャナン

もう2月…受験真っ盛り

あっという間に、2月になりました。東北では、1月末に大雪で大変だったそうですが、皆さんお変わりなくお過ごしでしょうか。首都圏では、天気は良くても冷える日々が続いています。先週末は久々の大雨。日曜には晴れたので、みんな礼拝に来るのに支障がなく、感謝でした。

2月に入り、いよいよ受験シーズン真っ盛りですね。このへんは、「中学受験」をする子がとても多いので、Jと同年代のお子さん達、お母さん達は、受験ですごく大変そうです。うちのJは、人と違う道を、マイペースで地道にがんばっているので、「受験」の「じ」の字もありませんが、他の方達を見ていると、ほんとにみんな大変だなぁと思います。特に中学受験は、親が付き添い、親が書類を揃えたり、親がしてあげなくちゃいけないことがすごく多いそうで、私には、とってもできないなぁ〜と、お母さん達の一生懸命な姿に感心されられます。お友達のお子さんの受験のニュースを聞くたび、神様の守りと助けがあり、それぞれに、みこころにかなった学校へと導かれますようにと祈らされています。